人類が文字を獲得し、それを後世に記録・伝達するための「紙」が発明されるまでには数千年の歳月が必要でした。
楔形文字や象形文字は石や動物などの骨、粘土などに彫ることによって残されています。今から4千年(!)前のエジプトで生まれたとされる「パピルス」が紙の起源であるとする説がありますが、「パピルス」は大型の水草であるパピルス草(和名:カミガヤツリ)を薄く裂いて経緯直角に重ね合わせ圧着・乾燥させてシート状にしたものではないかと云われ、現在の紙の概念である「漉く」という工程を経ていないところから「疑似紙」「紙類似物」と呼ばれています。
水と空気と太陽、そして花咲く植物からの贈り物=紙は人と自然の仲を取り持つ最強ツールです。特に日本は他国に類を見ない程、暮らしの中のあらゆる場面で紙の恩恵を受けて来ました。
日本の民芸運動の祖、柳宗悦(1889〜1961)が遺した言葉を借りながらその歴史を辿り、今号では和紙を【探〜tan〜】してみたいと思います。
製作年代が判明している日本最古の紙は正倉院に伝わる702年(大宝2年)の美濃国や筑前国などの戸籍用紙です。また、正倉院に保管された奈良時代の文書には、国名・和紙名が多数記され(表A参照)、既に日本各地で紙作りが行われていた事が分かります。当時の紙の多くは楮を原料とし、紙作りは「造紙」と呼ばれていました。
仏教の興隆目覚ましい時代。紙が普及する以前の経典は、中国同様に短冊状の「木簡」や「竹簡」を簾のように紐で編み上げていました。現在も手紙や書状のことを「書簡」と呼び、全集などの「第一巻」「第二巻」、「書物を紐解く」という言葉はここに由来しています。
平安時代になり貴族文化が花開くと、和歌を詠み写経のために紙の需要が高まり「紙屋院」と呼ばれる官製の製紙所が山城国(京都府)に造られました。
現在も天神川の上流は紙屋川と呼ばれ、『源氏物語』に登場する恋文をこの川の水で漉いたという逸話が残されています。「紙屋町」や「紙屋橋」などの名称は京都ばかりでなく全国各地に今も残されています。
この頃から「造紙」ではなく「紙をすく」と呼ぶようになります。「こす」とも「さらう」とも読まれる「漉く」という字が充てられました。日本独特の製紙法である「ネリ」を使用した「流し漉き」が確立したのもこの頃だと云われています。「ネリ」は黄蜀葵(=花オクラ)の根っこを細かく刻んで潰し、水に漬けて採取する粘液のことです。漉き舟(水槽)の中の紙料に加える事で楮などの繊維を均一に水の中に広げ簀桁の上での水の引き方を調節して繊維をよく絡ませる効果があり、乾燥後の製品をさばき易くします。誰がいつから使用し始めたのかは不明ですが、和紙を和紙たらしめる重要な介添え役を果たしています。
製紙技術の改良・進歩によって純国産和紙が大量生産されるようになり、厚手の唐紙(=襖紙)の生産も始まります。紙衣と呼ばれる和紙を素材にした着物も作られました。
この頃の税制度であった租庸調の調は、繊維製品を基本とする地方特産品を納める物納の事ですが、その中に少量ですが和紙も加えられています。
延暦23年(804年)に遣唐使と共に中国へ渡航した僧・最澄が和紙を献上したという記録が残されています。これは紙作りの先進国である中国への土産に持参出来る程の優れた和紙製法が確立していた証でしょう。この時の和紙は筑紫国(福岡県)で漉かれた雁皮を原料とする斐紙であったと云われています。
巻物、掛軸、屏風、襖、衝立、料紙、懐紙、画帖など、何事につけ手仕事による生活用具の製作を、単に便利さを追究するだけに止まらず、美的要素を加える事に長けた日本人。王朝文化を華やかにする様々な色をもった彩色紙や装いを凝らした加工紙も数多く作られました。紙を染める目的のひとつは防虫効果ですが、草木染めによる天然の色合いは自然と共存してきた日本人の豊かな情感をも表しています。
平安末期になると紙漉きは各地の荘園の経済的な基盤ともなり、同時に原料も不足し始めました。そこで、既に文字が書かれ不用になった反故紙をリサイクルした再生紙「漉き返し紙」が生まれたのもこの頃です。墨を取り除く技術がなかったので「薄墨色」とも呼ばれました。
鎌倉時代以降、紙の消費層が公家や僧侶から武士層に広がっていきます。それまでの神殿作りから主殿作り、さらに現在の和風建築に連なる書院造りという住宅様式の変遷を経て、和紙が日本の風土に適した「用」と「美」の調和を示す様々な建具を発達させました。
例えば、障子(紙障子)は部屋と外を仕切る、外光の調整・散光効果、湿気の吸着・脱着、空調、防風・防寒、断熱という「用」に加え、桟による線(直線・曲線)と和紙の面が織りなす淡い影模様、風景を切りとり、時に朧の情景にする「美」を備える。四季があり湿度の高い日本風土が生んだ(火や水に弱いという欠点を補うに余りある)優れた建具です。
それは蝋燭や油を使った行灯や提灯などの照明道具も同様です。和紙を透過した豊かな陰翳は優れた古典文学を数多く生み出しました。
室町時代になると先の「紙屋院」は廃止されました。それを支えていた貴族層の力が衰退した事が考えられます。その後、幕府や領主に特権を与えられた和紙の生産・流通を扱う職業集団「紙座」が各地で形成されますが、これらはやがて戦国時代末期になり信長や秀吉などによる自由主義経済とも云える楽市・楽座によって否定されました。それは紙が消費財として重要な「商品」になり、御用商人となった「紙商人」という名の新たな支配階級が生まれたという事でもあります。
豪壮・華麗な文化が花開いた安土桃山時代に和紙文化も更なる発展を遂げます。武家文化と町民文化、商工業者ら町衆が台頭、茶の湯の興隆を招きます。千利休(1522〜1591)が確立した侘び茶(草庵の茶)において様々な職人(職家)が芸術性を高めた工芸品を次々と生み出しました。衣の世界にも興った下克上の流れによって盛んになった小袖などの型染め用の型紙も優れた和紙で作られています。楮の長く強靱な繊維を用いた良質の手漉き和紙を幾枚か柿渋で貼り加工した型紙によって、自由な図案や文様が彫り抜かれ、今に続く友禅や小紋など多彩な文様を生み出しました。
江戸時代に入ると和紙文化は円熟期を迎えます。庶民の暮らしの隅々にまで紙の需要が高まり、全国各地で盛んに和紙の生産が行われるようになりました。各地の和紙作りは、藩の奨励もあって農閑期を利用した農家の副業として広がりをみせましたが、やがて家内工業化し、かつての官製製紙所の流れをくむ紙師とは別に工芸的な専門職=職人として自立する者が出て来ました。
また、三椏などの新たな原料による製紙も登場して、生産量も増大します。江戸における紙の取引量は米、木材に次ぐ程までになりました。さらに力を持った版元が生まれ木版印刷による出版が盛んになります。黄表紙、洒落本、滑稽本などは庶民にも広く読まれました。中でも錦絵や浮世絵には繰り返しの重ね摺りに耐えうる強く保存性の高い和紙が必要でした。
当時唯一交易が許されていたオランダへの輸出品は銀や銅の資源に加え、陶磁器、漆工芸品などでした。特に伊万里焼(肥前国有田)は海外で珍重され、純金と同じ価値で取引される事もあったそうです。貴重な焼き物を梱包する際に緩衝材として用いていた浮世絵などの反故紙が、後に美術品として扱われるようになった事は有名です。同時に高品質な和紙も高く評価されました。江戸における和紙のリサイクルについては、今号の『旬の噺』で取り上げた噺「紙屑屋」でも触れています。
凧、歌留多、折り紙、人形、双六、面子、紙相撲、等々。子供のための玩具にも和紙が多用され、江戸の夜空を彩った花火も優れた和紙があったからこそ実現しました。
寛政10年(1798年)には石見国(島根県)の国東治兵衛が石州半紙の全工程を分かりやすい絵図にして解説を加えた『紙漉重宝記』を著します。この日本初の紙漉き技法書が、当時「報告書」という形で各国語に翻訳されて世界中に広まり、製紙技術の向上に寄与していた事実は後年、昭和になって判明しました。
江戸時代も末期になると封建制度を成立させてきた米を中心に据えた経済構造が破綻し始めました。藩運営のすべての資金を賄うために年貢以外にも現金による徴税が行われます。殖産に力を入れ、藍や綿、蝋や煙草、菜種など現金収入を得るための換金作物に精を出す領民も増えてきました。もちろん和紙も同様です。各藩では財政収入の強化を図るために和紙生産の特産化、専売制強化を図り江戸や大阪の問屋などに売却、幕府の保護を受けた問屋株組織の独占販売による流通体制を完成させました。自由な販売を制約されるようになった和紙生産者や小売商は抵抗しますが、一度得た既得権にしがみつく支配層による圧迫は強いものでした。しかし幕府も徐々に弱体化、領民たちは、その搾取構造を黙って甘受するような時代ではありませんでした。
幕府が鎖国を解き、西欧から様々な交易品が輸入され始めます。古代中国から長い歳月をかけてアラブ諸国やエジプトを辿りながら伝えられた製紙法が西欧で発展を遂げ、産業革命を経て活版印刷やインキペンに適した「洋紙」として日本に再伝来しました。それまで日本人が紙と呼んでいたものとの違いが明らかになり、毛筆書きに適した日本の「和紙」と区別され始めました。
明治に入ると洋紙の製紙法や印刷法の近代化が一気に進みます。急速に進む西洋化の中で「用」と「美」を兼ね備えた自然中心の所産である工芸品をもう一度見直すべきではないかという潮流が生まれました。昭和の初め、柳宗悦らによる日本民芸(民衆的工芸)運動です。日本の自然を背景に全国津々浦々で名も無き名工たちによって受け継がれてきた造形芸術──陶磁器、竹細工、染織物、漆器、金工、ワラ細工等々。全国の手漉き和紙業者による組合も発足し、機械漉きの和紙工場も多く生まれた時代でした。
しかし西洋紙の普及は凄まじく、和紙の役割は既に終わったかのようでした。農閑期に僅かな現金収入を得るために、寒漉きと呼ばれる厳しい水仕事に励み、「ネリ」を発明し、世界に類を見ない最高水準の流し漉き技術の向上を図って、切磋琢磨してきた全国の紙漉き工房は次々と閉鎖されました。古い絵画や文献の補修には和紙が欠かせないとして、海外から和紙漉きを学びに来る留学生がいる一方で、その衰退には歯止めがかかりません。
今号の[探〜tan〜]で和紙への愛情溢れる言葉の数々をお借りした柳宗悦は昭和の初期、日本中の和紙の里を巡って、過去のものとなりつつある和紙文化の復活を信じ「どうあっても和紙の日本を活かしたい」と希望を語りました。それから60余年、我々は彼の願いを受け止める事が出来ませんでした。
産地名は伏せますが、今から5年前に行われたあるヒアリング調査によると、和紙作り(手漉き/機械漉き)に使用されている原料の80%以上は、中国やフィリピン、タイなど東南アジアからの輸入の楮に依存しているそうです。
茨城(那須楮)や高知(土佐楮)などの国産楮は生産量が少なく、生産者の高齢化が進み価格は輸入楮の10倍以上、しかも専業は成り立たず他の農産物との兼業栽培で僅かな生産量を確保している状態。残念ながら「食」の世界同様の現象がここにも見られます。
昨今、地球全体が気候の大転換期を迎えていると云われます。和紙文化の盛んだった時代とは、大気も陽射しも水も同じではありません。日本人の仕事に対する考え方も、原料である植物を取り巻く環境もすっかり変わってしまいました。現在漉かれている和紙が、嘗てのそれのように千年保つか、と問われてもそれを確認することは誰にも出来ません。今回、伝統の懐古趣味に終わってはいけないと自戒しながら、その歴史を辿り、花や緑や環境を通して和紙の将来を真摯に考える時が再び来ているのではないかと感じました。
■記載の事柄・史実について誤りがあれば、それはひとえに編集小子の不見識・不勉強によるものです。ご容赦願います。
■以下の文献・WEB SITEより引用、参考にさせて頂きました。「紙のはなし(人間の知恵)」(さ・え・ら書房刊・松岡淳一著)/「紙の知識100」(東京書籍刊・王子製紙編)/「和紙を漉こう(はじまりのもの体験シリーズ)」(リブリオ出版刊・宮内正勝監修)/「花の工作図鑑」(いかだ社刊・岩藤しおい著)/「産業の100年」(ポプラ社刊・佐藤能丸/滝澤民夫監修)/「森のふしぎな働き」(PHP研究所刊・谷田貝光克著)/「植物界之智嚢」(中興館書店刊・松山亮蔵著)/「有利なる農家の副業」(東京堂書店刊・今村猛雄著)/「渋沢栄一自叙伝」(渋沢翁公徳会刊・渋沢栄一著)/「三椏及三椏紙考」(王子製紙刊・成田潔英編)/「植物珍しいもの役にたつもの」(京都新聞社刊・理科教育研究会編)/「和紙のある暮らし」(平凡社刊・太陽編集部/コロナブックス編集部)/「別冊太陽和紙と暮らす」(平凡社刊)/「和紙つれづれ草」(平凡社刊・町田誠之著)/「紙の博物誌」(出版ニュース社刊・渡辺勝二郎著)/「紙の民具」(岩崎美術社刊・廣瀬正雄著)/「和紙千年」(東京書籍刊・高田宏著)/「和紙散歩」(淡交社刊・町田誠之著)/「和紙の里探訪記」(草思社刊・菊地正浩著)/「紙の歴史文明の礎の二千年」(創元社刊・ピエール-マルク=ドゥ・ビアシ著/丸尾敏雄監修/山田美明訳)/「ニッポンの手仕事」(日経BP出版センター刊・井上雅義著)/「日本の手仕事」(岩波書店刊・柳宗悦著)/「柳宗悦全集著作篇第11巻」(筑摩書房刊・柳宗悦著) 他■以下WEB SITE=全国手すき和紙連合会/NPO法人非木材紙普及協会/経済産業省/国立国会図書館/豊田市和紙のふるさと/(公財)和紙の博物館/日本紙パルプ商事(株)/(財)伝統的工芸品産業振興協会/紙への道/日本製紙連合会/青空文庫/いの町紙の博物館/八女手すき和紙資料館/杉原紙研究所/紙のさと・和紙資料館/東秩父村和紙の里/WIKIPEDIA The Free Encyclopedia 他
※各施設のWEB SITEから得た情報を掲載しています。ご訪問の際は、事前に各施設へ最新の情報を確認して下さい。紙漉き体験(有料)が出来る施設もあります。