作品名[もちつき]

  お正月、お祭り…都会から孫たちがやってくる度に大奮闘。じーちゃんとばーちゃんの息のあった心地の良い掛け声が響く。

田舎暮らしにも徐々に慣れ、創作のためだけの居場所を求めて3人の子供が小学校へあがった頃、駅からほど近い物件を借りて、「小人の国」という名の店舗兼工房を開いたこともありました。主婦と母親と作家と店舗の運営と…。
紆余曲折の末、残念ながら3年余りで「小人の国」は店仕舞い、元の暮らしに戻りますが、かえって「家にいること自体の居心地悪さ・・・、罪悪感のような気持ちさえ芽生えてくる」ようになりました。家族のみんなが収入を得るため働きに出ている中で「お金にならない人形作り」をしている自身への焦りのようなものも感じていました。そんな気持ちを払拭しようとパートタイマーに出ますが、更にまゆみさんのジレンマを溜めてしまう事になるのでした。
――「仕事を始めたことで、自分の中でどんどんジレンマがたまっていく。帰っても追われる家事仕事、子育ての苛立ち、家族の価値観の違いや時間を合わせることの難しさ。週一回の休みであっても、たびたび訪れる親戚たちの接待に息が詰まった。そこは自分の家ではなく、他人の家にいるような感覚だった。妬みや嫉みが心の中の膿となって渦巻いていた」。



 そんな時に出会った松澤登美雄氏(※)の木彫り人形に影響を受けて、初めて農家のおばあちゃんの人形を作りました。ようやくまゆみさんの目は、豊かな里山に生きる「人々」に向けられたのです。その「おばあちゃん人形」に勇気づけられ、人形公募展へ初めて出品。1998年(平成10年)、ユザワヤ創作大賞の人形部門で銀賞を受賞しました。作家としての創作意欲は益々増すばかり。「人形もある程度、売れるようになってきて、固定客もついた」…個展がしたいと願ったまゆみさんは、ある日「パートを辞めて、人形を仕事にします」と家族に宣言 
「次から次へと、近所の素朴な年寄りの姿を人形に映し出す日々」が続きました。
 1999年(平成11年)、東京・広尾のギャラリーで初の個展を開催。その後の作品集出版、テレビ出演などの精力的な活動は、作品たちの全国(90ヶ所以上)巡回展へとつながっていきました。

 ご存じのように、高度成長期以降日本の農業を支える人々の年齢は高齢化の一途を辿っています。昨年度(2009年)の農林水産省の調査によるとその約72%が60歳以上となっています。(右図参照)
確かに生活の利便性はいっきに進み、農業だけでは、近代的な暮らしは賄えないことも事実です。村には産業がない。産業がないから若者たちの働く場所が得られない。現金収入のための出稼ぎ、他所へ働きに出るようになる。働き手や若い労働力がどんどん都会へ流出する。若者がいないから「結」のような農業の共同体も自警団や消防団、村祭りも成り立たない。村々には「ないない尽くし」の現状のみが残され、日本の農村風景も大きく変わりました。同時に農業の近代化、機械化によって多くの農民たちが重労働から解放されたことも事実です。もう二度と身を粉にして働かなければ明日の米にも事欠くような暮らしに逆戻りをしたいとは誰も思いません。

元来、あらゆる意味で機能的に作られてきた「農村風景」を維持していくためには、たくさんの知恵と弛みない勤勉さが必要です。現在に至るまで、それを維持し続けてきてくれたのは地元の老人力です。辛抱強く働く人々がいたからこそ尊い精神性が連綿と(かろうじて)継承されてきました。

作品名[頑固ばあさんの家出]
お嫁さんの味方ばかりする息子に愛想を尽かしたばーちゃん。
先立ったじーちゃんの位牌を右手に、左には枕を持って家出の決行です。隣村の幼なじみの家でひとしきり愚痴をこぼした後は、孫への土産でも持って笑顔で帰って来るはずです。



 長年政府の後押しによって一定の効果を上げてきた「地域おこし」「村おこし」ですが、バブル崩壊後の長引く不況の中で新しいビジョンを獲得しつつあります。特産品や郷土料理を活用した「地域ブランド」、「農家レストラン」や「産直施設」が数多く生まれています。より安心・安全な食物の獲得や「スローフード」ブームの中で、都会に暮らす人々による「週末農業」や「体験型農業」は新しく健康的なレクリエーションのあり方として数多くの愛好者を生み出しました。


 永らく耕作放棄地として荒れ放題だった農地にも、若い人々が入植しています。今こそ、農村を守り続けてきたじーちゃん、ばーちゃんに学ぶべき時です。「生きる知恵」を無駄にしてはいけません。


 現政権党はマニフェストの中で「2010年度に開始したコメの戸別所得補償制度のモデル事業を検証しつつ、段階的に他の品目および農業以外の分野に拡大します」と謳っています。全国の農家に配布されたその概要によると、「食糧自給率の向上」と「農業と地域の再生」、「農山漁村の将来に向けて明るい展望を持って生きていける環境を作る」ための施策だと書かれています。果たしてこの施策が、若い新規就農者の加増や、若い農業者のいない水田集落(右図参照)などの減少にいかほどの効果が得られるのかは分かりませんが、貿易国としての外圧に負けず日本の「食」を担う人々にとっての安定した収入が、従来行うことのできなかった新しい農法や安全な作物の育成に役立つことを願うばかりです。
 「ともかく土について生活をしていられる方達は、全然一般の人々とは違うもので日常生きて御座るのである。これをここで自分流儀の言葉でいえば、人間として失くしてはならなぬものを無疵のまま、まだ胸の奥底に生活の根にちゃんと持っていられるのである。無論のこと、殆どの多くの方がこれを全然御存じなく、気づかれないままで。」――これは、比叡山麓に田畑を拓き終生小農として自給自足を貫いた松井浄蓮(本名:静一/1899〜1992)の残した言葉です。彼の生活信条や実践農業に共鳴した人々が集まるようになり、諸々の話題を語る中で、必ず彼の口から語られる言葉がひとつありました。「若しも、わたしがこの世に生まれて農耕の道、喜び、安心というものを知らずに終わったとしたら、人生の一番大切なものをみずに死んだことになるであろう。」
 にわかな「農業ブーム」の中で、新しく就農する人々や、(古くて新しい)産業として参入する企業の人々が、農業から得られるものが「収入」や「安定」だけではなく、希望やじーちゃんやばーちゃんから、なにかしらの哲学や精神性をともなうものを得ることができれば、と考えます。「自立よりも自律」、農業にはそして、「土」には、日本を人生を再生するような無限のパワーが宿っています。



陽信孝(みなみ のぶたか)・著
「八重子のハミング」との出会い
現代の「智恵子抄」と話題になった本書。陽氏の短歌と共に綴られた老々介護の記録。互いに迫り来る死の影を見据えつつ、残された日々を童女となった妻と力強く歩む姿が、私たちに現代の日本が抱える医療・介護問題などとともに、夫婦愛を深く考えさせられる一冊。

八重子のハミング
――――――――
\1,365(税込)
陽信孝・著(小学館刊)

※2005年以降は、小学館文庫にも収録。\500(税込)
作品名「いつくしみ」
高橋まゆみさんが、ふと立ち寄った書店で手に取った一冊の本。その本に啓発されて[いっしょに帰ろう]という名の作品を作りました――「子供のように無邪気に笑い、手には野の花、足元は互い違いの履物。幼子に帰った妻の手を引き、ゆっくり二人で歩くあぜ道」。まゆみさんを新しい作品づくりに駆り立てたその本のタイトルは「八重子のハミング」。著者である陽信孝氏自らが4度にわたるガン手術と戦いながら、アルツハイマーとなった妻を介護し続けた4千日を短歌と共に綴った記録です。まゆみさんがTV出演(徹子の部屋)した折りに、その[いっしょに帰ろう]の話に触れたことで、著者自身との交流が始まりました。
まゆみさんも寝たきりの母を実家の兄夫婦に託しながら人形を創作する日々の中にいたのです。――「陽さんと出会ったことで、私は次々と作品を生み出していった。『心の叫び』のような精神世界に導いてくれた陽さんとの出会いは、一生の宝だ」。

1  2  3  4

探〜探究探訪〜TOPへ