斎藤信夫は昭和11年(1936)、25歳の時に一年間休職し、千葉師範学校の専攻科へ入学しました。授業帰りに、市内の書店で読んだ女教師向け月刊誌の投稿欄に載る作曲家の作品に強く惹かれ、早速東京・小石川区(現・文京区)の音羽幼稚園を訪れます。のちに『里の秋』誕生の最大の恩人となる2歳年上の作曲家・海沼實との出会いでした。新人作曲家であった海沼實かいぬまみのるは当時、音羽幼稚園で音楽の先生をする傍ら、閉園後の園舎で子供たち(児童合唱団・音羽ゆりかご会の前身)に歌を教えていました。

私の勘で、この人は将来きっと伸びるに違いないと判断し、書店に住所を調べてもらい、専攻科の卒業式の何日か前に訪ねた。護国寺の境内で、音羽幼稚園の音楽の先生をしていた海沼氏と会い、人となりにすっかり魅せられてしまった。

 初対面は、わずか15分程度の立ち話だったと回想しています。その後、詩ができると海沼に送り続けた信夫は、同時に様々な同人誌に参加しながら、昭和13年(1938)に個人童謡誌「ひとりたび」を創刊。「ひとりたび」は戦時中の休刊をはさみ、昭和28年まで続きます。



 斎藤信夫が船橋市内の小学校の訓導をしていた昭和16年(1941)3月に書かれた作品『さよなら三丁目』には、楽しく遊ぶ子供たちの姿が生き生きと描かれています。〜あしたもあそぼ なかよくあそぼ ゆびきりげんまんまたあした〜(『さよなら三丁目』は翌年、山口保治作曲でレコード化され、昭和16年度童謡レコード部門文部大臣賞を受賞しています。)

これは、戦争感覚のまだ淡いころの子供たちの遊び歌として書いたもの。タイトルが好きだし、語呂がいいし、明るい子供たちであって欲しいと考えたことが動機となり、作曲や踊りを意識して作ったものである。

 しかし、その明るい子供たちさえも時代の濁流は否応なく巻き込んでいきます。国民学校令が発令され、彼らを少国民と呼び始めたのもこの年、昭和16年でした。
 同年11月に南郷村の自宅で、戸田好枝さんと挙式。物資統制下では新婚旅行もかなわず、幕張(千葉県)に居を構え新婚生活がスタートします。


 そして翌12月8日、"大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍ハ本8日未明、西太平洋ニオイテ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ" ―― 真珠湾攻撃を合図に日本は戦争へ突入していきます。戦機の高まりと共に戦時歌謡や少国民歌がラジオから流れる時代、斎藤信夫は違和感を感じつつも"戦時童謡"の制作を試みますが、「なかなか心に触れるものが生まれなくて」苦悩します。童謡と戦争がまったく馴染まぬものであることを誰よりも知っていました。

ところが、21日の夜ふと閃いた。そうだ、慰問文形式がいい。場所は東北地方の片田舎。親子3人の平和な家庭に召集令状が来て、父は今戦地。ほだ火の燃えるいろり端では、小学4年か5年の男の子が、鉛筆をなめなめ、戦地の父へ慰問文を書いている。

 結婚後間もない12月。満天の星降る寒い夜に信夫は『里の秋』の原型となる『星月夜』を一気に書き上げます。それは戦地で戦う父を思い、母とふたりで家を守る少年の心になって書いた詩でした。早速『星月夜』を、ほかの詩と一緒に印刷して海沼に届けていますが、「戦争は年毎に激しくなり、作品のことなど頭になかった。」と後に述べています。




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