和22年(1947)4月、心の整理をつけた信夫は中学教師として教壇に復帰します。36歳になっていました。童謡詩人としても引き続き『夢のお馬車』『夢のおそり』『ばあや訪ねて』『母さん訪ねて』などを海沼とのコンビで発表しレコード化、ヒットを重ねます。昭和29年(1954)、43歳の時に月刊童謡研究誌「花馬車」(〜昭和61年)を創刊。続いて翌年には幼児童謡研究誌「三輪車」(〜昭和42年)を創刊します。同人らと共に詩の研鑽に励み、童謡の普及に努める日々。レコード化された作品の他、校歌や園歌の作詞も多数手掛けています。昭和38年(1963)1月の「三輪車」には、前年の暮れまでに『里の秋』の放送回数が1万回を突破したことが報じられています。

昭和42年(1967)56歳。 戦後の20年間を、中学校教師として勤め上げて退職。終身現役を目標に作詞活動をするかたわら、講演会などへも赴きました。

余生という言葉は好きではないが、残された時間を童謡創作一本にしぼって、分に応じた、ささやかな努力を続けていきたいと思う。

 昭和46年(1971)6月13日、『里の秋』誕生の恩人であり、戦後の童謡黄金期を互いに支え合った海沼實が、心筋梗塞のため62歳で他界します。生涯約3,000曲を作曲し、レコード大賞の童謡賞を2度受賞。「寝ても起きても童謡であった」氏の訃報に、「せめてもう5年10年の天命をと凡人の未練が残る」と斎藤信夫はその死を悼んでいます。
 その後、斎藤信夫は童謡集「青空を見つめて」(山武郡教育研究会・刊)を出版。昭和55年(1980)に、作品1万篇を達成。2年後、成東町によって成東城趾公園に前述の『里の秋』歌碑が建立され、75歳の時に、『里の秋』40周年を記念した詩集「里の秋」(里の秋出版後援会・発行)を出版しました。

本来童謡は、作曲化され、レコード化され、舞踏化され、劇化されて、少しでも多くの子供に、歌われ、踊られ、愛されることによって、真に子供たちの心を、明るく、強く、正しく、ダイナミックに揺り動かし、光りを求めて全うされるのではないでしょうか。

 昭和62年(1987)9月20日、斎藤信夫は千葉市内の病院で家族に見守られながら静かに息を引き取りました。享年76歳。同日、勲五等双光旭日章受勲。生涯に書いた詩は1万1,127篇を数えます。

肉体は亡びても、作品の中に永遠に生きていたい。人類の世界つづく限り、常に童心と共にありたい。これが私の童謡制作態度です。


 終戦直後に、ラジオから流れた『里の秋』への反響はその後も手紙などで数多く寄せられました。大半が三番の歌詞に対するものでした。出征兵士を待つ家族から「この曲に励まされた」というお礼や賞賛の声が多い一方、なかには引揚船の中で栄養失調や疫病で亡くなったり、外地での戦死を知らされ遺族となった人々からの深い失望の声も含まれていました。


自分としても、三番はなくてもよかったと思っている。
歌自体はともかく『里の秋』のような歌で喜ぶ人がたくさんいる世の中はあまり迎えたくないからである。



 この時の思いが、平和な時代を築く教え子たちを育むため、再び教師として生きる道を信夫さんに選ばせたのかもしれません。不本意ながらも"戦時童謡"を試みた中で生まれた『星月夜』が、「天の時、地の利、人の和」を得て、名曲『里の秋』となり、歌い継がれています。川田正子はその作品を「情感に満ちた詞には、斎藤先生の繊細な性格がにじみ出ていて、いずれも優しく、温かみのある曲になりました。私にとっては大切な宝物のような曲ばかりです。」と綴っています。



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