昭和20年(1945)6月、斎藤信夫34歳の時に応召。同年8月広島・長崎に原爆投下、日本がポツダム宣言を受諾。
8月15日、多くの犠牲を生じた戦争は終結しました。敗戦後間もなく【外地(含む樺太)および外国在留邦人引揚者応急措置要綱】が決定され、10月には浦賀港へ引揚第一船氷川丸が復員兵二千余人を乗せて入港します。11月には厚生省社会局に引揚援護課が新設され、浦賀にも横浜出張所が出来ます。そして、復員してくる兵士たちを迎える【外地引揚同胞激励の午后】という(浦賀港から生中継する)ラジオ番組がJOAK(東京放送局/現・NHK)によって企画されました。既に作曲家として『お猿のかごや』や『あの子はたあれ』で頭角を現し、人気少女歌手の川田正子(当時国民学校5年生)の指導者・後見人となっていた海沼實は、既存の歌と共にその番組で流す新曲の制作を依頼されました。復員兵たちに故郷の香りを音楽に乗せて伝え、家族との再会を心から実感してもらえるような歌。歌い手は川田正子と東京児童合唱団(音羽ゆりかご会)と決まっています。
その頃の斎藤信夫は、真面目と律儀さ故自らの進退に苦悶している時期でした。今年92歳になる妻の好枝さんは、 その頃のことを「学校で『戦争に勝つ』と言ったのに負け、子供にうそをついたから嫌になったんでしょう。あの人は不器用だから」とお話しして下さいました。また後に、「自分には教師としての責任がある」と、まだ子供だった川田正子に思い詰めて語るほど、教育者として戦争責任のとり方を真剣に模索していました。
12月中旬、帰省中だった信夫のもとに一通の至急電報が届きます。【スグオイデコフ カイヌマ】…海沼とは「数年前にただ1度会ったきり」でしたが、童謡の話であるに違いないと思い、急ぎ上京した信夫は当時、海沼が寄寓する南佐久間町(現・西新橋)の川田家へ駆けつけます。早速、海沼が詳しい事情を話し始めました。復員兵の心に響く歌にするため、かつて信夫が書き送った『星月夜』の一番二番の歌詞はそのまま、四番を捨てて三番の詩を書き替えて欲しいという要請、「曲は一番二番があるから、それによって私が作ります。たった1回の放送だから、適当にまとめてくれればいいんです」というものでした。
番組まで1週間一寸しかないが「なんとかやってみます」、そう言って、その日は成東の自宅へ帰ったものの、頭がぼうっとしていた。木に竹を接ぐとよく言われるが、まさにそのとおりで、自信のないまま24日の朝になってしまった。
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