拘留された健の身柄を引き受けにきた祖父は、警官に謝るどころか「お前ら、いってえこれが何をしたと言うんだ!」と怒鳴り込んで来たと言います。普段は温和しい祖父のもつ反骨精神、「社会的な勇気」に触れた瞬間でした。保釈後のしばらく青森市郊外の伯父の家に寄宿している間に阿部合成との付き合いが一層深まります。合成は京都にあった絵画専門学校に入学していましたが、休みを利用しては度々帰省していたのです。
創作に関していえば、帰郷する以前よりプロレタリア美術運動への矛盾や、他の画学生たちの描く絵に白々としたものを健は感じるようになっていました。理論ばかりで反体制・反骨を気どっても、それらが描く絵は当時の流行や中央画壇を意識したものばかりだったからです。
―――ものほしげな、絵。つまり、こういう手法でこう描けば、ひとから誉められるって。私はそういうの、イヤになっちまって。ひとの評価を気にして、ひとの評価どおりのもの描くってのは、妙なもんだ。そういうのには自分自身が、何もないんだ。(常田健)
(資料Bより) |
1984年(昭和59年)頃、70歳代の常田健。
撮影されたのは、弟の常田昭三さん。 |