画家・常田 健の生涯

87歳の時に「発見」され、その後「土蔵の画家」「津軽のゴーギャン」と呼ばれた画家・常田健。
今号の[探〜tan〜]では、故郷青森で農業を営みながら土蔵のアトリエに籠もり
「売らない」「発表しない」絵を描き続けた孤高の画家の生涯を辿ってみました。 (文責・編集部)




 ひとは何故絵を描くのでしょうか――。現在確認できる世界最古の「絵」といわれる洞窟壁画には数多の動物が描かれています。獲物の捕り方を互いに教え合うため、躍動する動物の美しさを残すため、食料となった獲物たちの成仏を願って描かれたものかもしれません。芸術なのか。信仰なのか。あるいは、「何か」の使命を帯びた者が描き残したものなのか…。


 画家・常田健の故郷は、津軽平野の中東部に位置する青森県南津軽郡五郷村(現・青森市浪岡町)。小学校長の父・健三郎、教師の母・みさほの五男二女の長男として1910年(明治43年)10月21日に生まれました。津軽三味線の高橋竹山(〜1998)や映画監督の黒澤明(〜1998)が同い年、青年期に画才を認め合い共に研鑽をつんだ画家・阿部合成(〜1972)も同い年で健の従兄にあたります。合成は、代々浪岡八幡宮々司の家柄にして、浪岡町長・衆議院議員を経て青森市長に任命された知識階級の父を持つ裕福な家庭に育ちました。
 健は、周囲のほとんどが田畑やりんご園を営む小規模農家の中で、山の手入れや稲作に励む祖父母と過ごす時間が長く、特に祖父・藤之助からは強い影響を受けたと語っています。

―――親が教師で家にいなかったから、私はじいさんと暮らしたようなものです。じいさんは、考え方が自由で、闊達になんでもやれという態度でした。じいさん自身が貧乏な百姓の出身で、絶えず自由が欲しいと思っていたんでしょう。一部の金持ちのための社会に対する反発の心もあった。私はじいさんからいろんな影響を受けたなあ。(常田健)(資料@より)



 常田健は14歳で家から約20km離れた旧制弘前中学校(現・県立弘前高校)へ進学します。幼い頃から誰もが認める絵を描くことが上手だった健少年は、そこで美術学校を卒業して間もない新米の図画教師に出会い、初めて本格的な洋画を学び魅了されていきました。

長男故、地元に残ることを切望する父の反対を押し切って美術学校への進学を希望した健は、1928年(昭和3年)18歳で中学を卒業し単身上京、受験のために[川端画学校(東京・小石川)]洋画部でデッサンを学びます。時代はふたつの世界大戦の狭間で不穏な空気が漂い、治安維持法が緊急勅令されたのはこの年でした。やがて健は学友らに誘われ、(本家パリの芸術の中心地にあやかって)のちに『池袋モンパルナス』と呼ばれた長崎町周辺
(現・豊島区西池袋周辺)に出入りするようになります。貧しく野心にあふれた画家や音楽家たちが暮らすこの一帯は、多くのマルキシストやアナキストたちがアトリエ付きの借家などに集って芸術論や政治論を交わす独特の気風を持っていました。搾取の連鎖から逃れられずに苦しむ東北の小作農家を身近に知る健も大いに思想的影響を受けるのでした。そして、間もなく若い画学生のひとりとして[日本プロレタリア美術家同盟(=AR)研究所]で学び始めます。

 「若き日の熱病」「思想かぶれ」とは過言でしょうか。当時の反政府運動と連動した左翼イデオロギーに当然のように健も惹かれていきました。それは、従兄の合成や、その旧制青森中学時代からの友人であり共に資産家出身の津島修治=のちの作家・太宰治(1909-1948)が、己の立脚点とイデオロギーの狭間で煩悶する姿やその作品とは一切重なりません。同時期に太宰も、大学へは通わず左翼運動に傾倒していましたが、「虚栄のモダニティから、それを自称する者もあり、また自分のように、非合法の匂いが気に入って、そこに坐り込んでいる者もあり〜」(資料Lより)とうそぶき、「私に思想なんてものはありませんよ。すき、きらいだけですよ。」(資料Mより)と、その動機からは全く切迫感が伝わってこないのです。

―――いつも調子はいいが、どこか腰のすわらぬ阿部に、常田が「地主などやめたらどうか」というと、相手は棒をのんだようになって、「だれかおれの生活を保証してくれればやめるさ」と答えたらしい。(針生一郎/批評家)(資料Aより)
 太宰は、やがて左翼運動から離脱。特異な感受性を持って文学的開花を遂げますが、死の誘惑に取り憑かれ、徐々に自己否定、自己破壊的な人生へと埋没していきます。



後列左から常田健、父・健三郎、弟。前列は弟を抱く母・みさほとふたりの妹。

 常田健が[AR研究所]で学びはじめた1930年(昭和5年)といえば昭和恐慌の真っ只中。日本経済は危機的状況に陥り、不況の中で失業者は激増。翌年には満州事件が勃発し、国内にファシズムの嵐が吹き荒れ、官憲の横暴が日常化し始めていました。全国各地で労働争議や小作争議が頻発していた時期でもあります。さらに翌年の冷害による凶作が追い打ちをかけて、小規模農家や小作農家は壊滅的な打撃を受けます。東北地方では雑穀さえ手に入らぬ飢饉状態に陥り娘たちの身売りが常態化するまでに追いつめられていました。
 そんな混沌と喧噪の中、健が故郷へ帰るきっかけとなる事件が発生します。
1933年(昭和8年)、軍事教練をボイコットした故郷の農業青年たちによるストライキが起き、健はその応援のために青森へと向かいますが、ストライキは既に鎮圧された後でした。しかし、在京中に描いていた絵がプロレタリア絵画だったということで特高警察に目を付けられていた健は、首謀者たちと交流をもつ関係者として検挙、拘留されてしまいます。
―――まあ、左翼の弾圧があったころがいちばん苦しかったですな。お前の存在が気に入らんと捕まる。そんな時代だった。(常田健) (資料@より)

 拘留された健の身柄を引き受けにきた祖父は、警官に謝るどころか「お前ら、いってえこれが何をしたと言うんだ!」と怒鳴り込んで来たと言います。普段は温和しい祖父のもつ反骨精神、「社会的な勇気」に触れた瞬間でした。保釈後のしばらく青森市郊外の伯父の家に寄宿している間に阿部合成との付き合いが一層深まります。合成は京都にあった絵画専門学校に入学していましたが、休みを利用しては度々帰省していたのです。

 創作に関していえば、帰郷する以前よりプロレタリア美術運動への矛盾や、他の画学生たちの描く絵に白々としたものを健は感じるようになっていました。理論ばかりで反体制・反骨を気どっても、それらが描く絵は当時の流行や中央画壇を意識したものばかりだったからです。

―――ものほしげな、絵。つまり、こういう手法でこう描けば、ひとから誉められるって。私はそういうの、イヤになっちまって。ひとの評価を気にして、ひとの評価どおりのもの描くってのは、妙なもんだ。そういうのには自分自身が、何もないんだ。(常田健) (資料Bより)

1984年(昭和59年)頃、70歳代の常田健。
撮影されたのは、弟の常田昭三さん。

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