画家・常田 健の生涯



 健の30歳目前、時代が焦臭さを増していく中、その焦燥感を跳ね返すように描かれた代表作が次々と生まれています。県立女学校で教鞭を執っていた今井純さんと結婚した1939年(昭和14年)からは、3年連続で二科展へ出品します。第26回二科展へ「ひるね」「飲む男」を出品し、「ひるね」が入選。第27回二科展へ「睡れる水引人」を出品・入選、第28回二科展へ「はじまり」を出品し、入選しています。その間に日本は世界大戦へ参戦、真珠湾攻撃の高揚感が国を挙げての消耗戦への端緒となりました。やがて健も召集され、1945年(昭和20年)終戦により除隊したのは35歳の時でした。恐らく、この頃に書かれたものであろう健の叫びが残されています。




―――フィリピンをとられたと泣き言を言う。貧乏国になり下がったと泣き言を言う。しかし誰のせいなのだ。たまさか、その資格のない者には富は害悪ではないのか。

さらに健の言葉は続きます。

―――何かのうぬぼれを自然はしたか。木や草はかつて泣き言を言ったか。太陽も風も雨も泣き言を言いはしないのだ。(常田健)(資料Dより)


 戦時中も絵の具の配給を受けながら制作を続けていたという健ですが、中学在学中から美術団体の展覧会で作品を発表したり、画家の登竜門である二科展に度々入選した実績にも拘わらず、終戦後は中央画壇ときっぱりと縁を切りました。
 

―――入選したり、賞をとったりするやり方…そのやり方で絵を描く、そんな考え方は全然ない。何かをやって偉くなるとか、妙な考えがないことを自覚しているから、そういうものを軽蔑しているから、それはいいと思うんだよなあ。つまり、自分勝手だな。
(常田健) (資料@より)

 一方、[グレル家]の合成も戦前から評論家の間では、ある一定の評価を得ていましたが、二科展特選を獲った代表作「見送る人々」の誤解によって貼られた反戦画家のレッテルが付きまとい、更に作品の模倣疑惑などが重なり、健の理由とは異なりますがあらゆる公募展と絶縁した状態にありました。一度は兵役を免れるもののやがて出征、終戦後2年余りのシベリア抑留から帰還したのは1947年(昭和22年)1月でした。戦後の合成について、健は「合成さんはこの上なくしぶとくなっていて、容易に彼の中身が見えない位に部厚く装備していたようで、然し彼自身は思う存分あけすけに振舞っていたようです。そのナメシ皮のようなものは一体何であったか。たしかに彼は一種のブルドーザーのようでありました。」(資料Fより)と語っています。その後、健と合成の間にどんな遣り取り、交流があったかは不明ですが、晩年の健は合成の絵との併陳には決して同意しなかったと言われています。合成は、メキシコなどを放浪の後帰国、おもに画廊などで個展を開催し、入水自殺した親友・太宰治の文学碑(青森県金木町芦野公園)などを制作。1972年(昭和47年)、ガンにより62歳で亡くなっています。
1944年(昭和19年)頃。
妻の純さんと長女と健、出征を前にして。





 戦時中の軍国主義による文化蹂躙が一転、日本の敗戦によって自由や民主主義の時代になり芸術の世界へも欧米文化が一気になだれ込んできました。 1947年(昭和22年)の秋、同郷の画家・尾崎ふさ(1923-2006)が健のアトリエを訪れます。庭で上半身裸になって黙々と薪割りをする健とは初対面、闇雲な欧米文化一辺倒の傾向に何とか抗おうとする仲間たちで作る会への賛同を得に来たのでした。3年後、「青森美術会」は尾崎ふさや濱田正二(1913-2008)たちの画友6人でスタートし、最年長者の健は代表を引き受けることになりました。第1回青森美術会展を青森市内のデパートで開催し、翌年からは朝鮮半島での戦局を憂い、名称を「青森平和美術展」と変え、現在も多くの会員によって継続・開催されています。

 その頃、すでにふたりの娘をもつ父親となっていた健ですが、食事と風呂以外は母屋を離れ土蔵のアトリエに寝泊まりし、創作三昧の日々を送っていました。絵筆を持つ合間に好きなバッハの音楽に耳を傾け、疲れればそのまま横になり、作品の表現に迷えばホイットマンの『草の葉』を読む日々。「父の描いた『親子』の絵は、『我が家』とは別のものだと思っている。」と語る次女の文さんは、「夕食時に父を呼びに行くのが子どもの頃の私の日課で、ドアを少し開けた隙間から『とうさん、まンま』と声を掛けると、中からは絵の具の匂いと一緒に『おう』と返事が戻ってきた。あとに会話は続かず、私は一人でさっさと母屋へ引き返す。」(資料Gより)と、その頃のことを回想しています。
 晩年、妻・純さんに先立たれた数年後、ふと「夫婦ってのはやっぱり、一緒にいるもんだよな…俺は悪いことしたかな…」
(資料Gより)と後悔ともとれる言葉を文さんに漏らした健。残された小文では「家族につらい思いをかけるのはおれもつらいが」と心情を吐露していますが、同じ文章の中で「いかにわがままであろうとなかろうとそれより道はないと」(資料Dより)とも綴り、心の中の葛藤は小さくなかったことがうかがわれます。


 職業を持ちながら、創作に傾注・没頭する芸術家たちにとって家族とはいったいどのような存在なのでしょうか――。
 「君は自分が絵に親しむ事を道楽だとは思っていない。いないどころか、君にとってそれは、生活よりもさらに厳粛な仕事であるのだ。しかし自然と抱き合い、自然を絵の上に生かすという事は、君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。」(資料Hより)と、漁民として働く画家への深い理解を示すのは、大正時代に自らの農地を無償開放したことで知られる作家・有島武郎(1878-1923)です。板子一枚下は地獄という北海道の厳しい漁場で生きながら、画家として苦悩する青年が登場する、小説「生まれ出ずる悩み」の中で語られています。さらにその創作姿勢を「だれも気もつかず注意も払わない地球のすみっこで、尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでいる」と表現しています。

―――私は土着した農民のあり方を身を以て示したというと、自分をほらふきだと時々反省します。正直言ってここにこそ私の世界があると、だんだん自覚するようになり、現在に至っています。(常田健)(資料Lより)





 リンゴ園の仕事などをしながら、土蔵のアトリエに籠もって黙々と創作を続ける常田健。売るための絵は一切描きませんでしたが決して隠遁生活をしていた訳ではありません。
前出の「青森平和美術展」と共に、権威主義を排し官展へ批判的立場にたった「日本アンデパンダン展」にはほぼ毎年出品し、乞われれば地元紙に新聞小説の挿絵なども提供しています。青森市や弘前市で小規模な個展を開き、1967年(昭和42年)57歳の時に、東京でも一度個展を開催しています。
74歳になった1984年(昭和59年)には、「青森美術会」より初めての画集『常田健画集』が刊行されていますが、この画集がのちに「土蔵の画家」ブームをつくるきっかけとなりました。
 
[祖母] デッサン
1970年代制作






 ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)は、優れた音楽家一家に生まれ、10歳の誕生日を前に両親を失いますが、兄の応援を得て音楽を学び続けます。やがてその勤勉さと努力の末に教会や宮廷で最大の名声を得るまでになり、オルガン奏者としても超絶技巧を披露します。しかし、残念ながら政治力、協調性には乏しかったようです。時に権力者に阿る事もありましたが、つねに嫉妬と軋轢のなかにいて自分の流儀を変えることができなかったために、やがて台頭してきた明るく感傷的なイタリア・オペラの前では、古くさく流行遅れの音楽として冷遇されることになります。
バッハの死後、未亡人となった妻にいたっては、収入の道を閉ざされ売れるものは全て売って暮らしました。極貧のうちに亡くなったときの遺体は「貧民」として埋葬されたと言います。荘厳で複雑な技巧を凝らしたバッハの音楽は、その死後半世紀を待たずして人々の記憶から消え去りました。詳細は割愛しますが、死後85年の歳月を経てメンデルスゾーン(1809-1847)に再発見され、バッハ復権運動を得て今日では『バロック音楽の父』と呼ばれる揺るぎない地位を獲得しています。
常田健の土蔵にしまい込まれていた作品群が、はじめて画廊オーナーの目にとまった経緯を、後に「発見」とか「発掘」と例えた評論家もいたそうですが、ともに歴史の必然性としか例えようがありません。凡人の理解をあてにしない求道者然と君臨するバッハの音楽の中に、健はなにを感じていたのでしょう。晩年に健がテレビ番組に出演した際、バッハの音楽が好きであることが知られたために、突然見ず知らずのひとから音楽CDが贈られてくることがあり、本人はとても喜んでいたそうです。

  
  [常田健 土蔵のアトリエ美術館]内に展示されている健の愛聴盤。

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