やがて生花問屋[花太]の経営が軌道に乗り始めた頃に、太郎吉は房州(現千葉県)に遊山に出掛けました。もちろん鉄道などなかった時代の事です。その際に立ち寄った鋸南町で、海辺に多くの水仙が自生する姿を目にしました。
驚くべき速さで近代化・都市化されてゆく東京では庶民の暮らしも落ち着きを取り戻し、花の需要も伸びていました。
人心不安な幕末期の度重なる改革や倹約令などによって一時衰退していたかにみえた生け花(華道)や茶の湯(茶道)の世界にも新しい流れが興りつつありました。元々、茶の湯の世界では侘茶が確立されたという室町時代中期から水仙は重要な花材として扱われ、現存する茶会記の多くにその名を見る事ができます。茶聖千利休(1522-1591)や綺麗さびの小堀遠州(1579-1647)はもとより、多くの茶人の心を魅了してきたのです。江戸時代に爛熟期を迎えた生け花においても水仙は格式ある花として尊ばれ、伝書『生花七種伝』には「陰(冬)の花、水仙に限る。賞賛すべき花なり」とも記されています。
暮らしの西洋化や日清・日露戦争という時勢も都会での生花需要の高まりに拍車を掛けました。
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