太郎吉は好きな花に囲まれて骨身を惜しまず働きました。独立後もその栽培方法の研究はもちろん、新たな販路の開拓や流通構造の改革に力を尽くしました。宮内省(当時)に出入を許可されるまでになった研究熱心な太郎吉に絶好の機会が巡ってきました。
1890年(明治23年) に宮中で紀元節の祝宴が催された際に横浜在住の米国人ボーマー氏が食卓用の高価な盛り花を請け負いました。
今迄にない美事なものではあつたが、何しろ1個80圓、という代價には驚いた。
美しい西洋花で調製された盛り花は、祝宴後[花太]に貸し下げられる事になり、太郎吉は日本人として初めて洋花の研究・栽培に着手するきっかけを得ました。
其時に用ひた花も今から見れば、洋花といつても極めてザラにあるベゴニア、マーガレット、などで、どうしてそんな高價な値が計上されたかと思ふ程であつたといふ事である。

 やがて生花問屋[花太]の経営が軌道に乗り始めた頃に、太郎吉は房州(現千葉県)に遊山に出掛けました。もちろん鉄道などなかった時代の事です。その際に立ち寄った鋸南町で、海辺に多くの水仙が自生する姿を目にしました。
 驚くべき速さで近代化・都市化されてゆく東京では庶民の暮らしも落ち着きを取り戻し、花の需要も伸びていました。
 人心不安な幕末期の度重なる改革や倹約令などによって一時衰退していたかにみえた生け花(華道)や茶の湯(茶道)の世界にも新しい流れが興りつつありました。元々、茶の湯の世界では侘茶が確立されたという室町時代中期から水仙は重要な花材として扱われ、現存する茶会記の多くにその名を見る事ができます。茶聖千利休(1522-1591)や綺麗さびの小堀遠州(1579-1647)はもとより、多くの茶人の心を魅了してきたのです。江戸時代に爛熟期を迎えた生け花においても水仙は格式ある花として尊ばれ、伝書『生花七種伝』には「陰(冬)の花、水仙に限る。賞賛すべき花なり」とも記されています。
 暮らしの西洋化や日清・日露戦争という時勢も都会での生花需要の高まりに拍車を掛けました。

外人が贈答用に花束を用ふる事が多いが日露戦争當時、出征軍人に對して、花束を贈る事は、同業者間でも頗る奇異の目を向けて居たものであつた。
 それまでのように、農家が畑地の一画に植えた花を市中へ持ち込み武家の床の間用に売っていた程度では花の種類も出荷量も時代のニーズに追いつきませんでした。そこで、太郎吉は鋸南町の人々に、元来水仙の生育に適した土地柄を利用した栽培方法を丁寧に教え、安定した水仙の生産を可能にしました。加えて東京への販路も斡旋する事で、農家の花卉栽培への転換を促し、多くの生産者に現金収入をもたらしました。また、太郎吉は水仙ばかりでなく、温室栽培がなく野地栽培中心の時代に油紙を使ったキンセンカやキク類の早期栽培法などの普及にも尽力し、徐々にその成果が上がっていきました。
 しかし時はいまだ海運に頼っていた時代、太郎吉と花卉農家の人々の努力が実り、やがて南房総の花々が東京の市場を独壇場をするようになるまでには、新しい輸送方法=鉄道の敷設を待たなければなりませんでした。

『花の生い立ちと其の故郷』
二代目内田松之助が1934年(昭和9年)に出版。
日本に於ける生花市場のパイオニアとして明治・大正・昭和を生きてきた松之助が日本の生花について、歴史、産地、栽培、種類などその全てを網羅した日本初の「花大全」ともいえる書。今号[探]の編集にあたり、東京大空襲による焼失を免れた貴重な一冊をフロリード株式会社の内田守彦会長のご厚意により特別に閲覧させて頂きました。


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