やがて鋸山隧道を南下し、鋸南町に待望の鉄道が運行され、保田駅・安房勝山駅が開設される事になる前年1916年(大正5年)8月、並々ならぬ太郎吉の助力に対し「翁の奨励と指導により保田水仙組合を嚆矢として各地に普及せる房州生花の栽培と東京都内の生花市場の潤沢なる活況とは一に懸つて翁の功績に依るものなり」として鋸南町の花卉栽培に携わる人々を始めとする有志たちが前出の「水仙羅漢」を建立、日本寺に奉納しました。太郎吉66歳、日本は第一次世界大戦のさなかでした。
花に魅せられ、花を愛し、「花渡世」ひと筋に生きた内田太郎吉は多くの人々の心に「花の心」を遺し1920年(大正9年)、その天寿を全うしました。享年70歳。太郎吉が花問屋としての使命感から夢見た生花の市場制度が確立されたのは1923年(大正12年)の事でした。
内田太郎吉の貢献によって鋸南町に名産物としての水仙栽培が根付き、その本場として日本中に知られるようにもなりましたが、そもそも鋸南町に日本水仙が群れ咲くようになったのはいつ頃のことなのでしょうか。地中海沿岸を原生地とする現在の説によると、水仙はシルクロードを辿り中国を経て渡来したものだとされています。
鋸南町の水仙の歴史を遡るといくつかの伝承・伝説に辿り着きます。
そのひとつ――「秀東寺の和尚が中国から水仙をもたらし植えた。それが広まったのが保田水仙のはじまりである。故に、ある時代まで水仙のことを秀東寺花と称した」 というもの。現在も鋸南町にある秀東寺は1384年(至徳元年)に創建された臨済宗建長寺派のお寺です。『鋸南町史』では古老による聞き伝えとして「真否は断定できないが一応書き残しておく」としています。ちなみに「保田(ほた)」というのは、水仙の産地で現在も残る鋸南町にある地名です。
さらに安房花卉園芸組合連合会の創立50周年記念誌『房総の花』には「伝説によると南北朝の時代、第三十五代花園天皇が姫を京都より逃避させるため淡路島に船出させましたが、途中海難にあい太平洋に流され、今の南房総市和田町花園の木花台(ぼっけだい)に船が打ち上げられました。このとき、姫は黄色の花の咲く木を持っておられ、これを村人達に分け与えたのが花づくりの始まりだといわれています」という記述も残されています。――[南房総資源辞典]WEB SITEより
内田太郎吉の徳望を慕い、その尊い面影が刻まれた[水仙を抱いた羅漢像]。日本寺に奉納されています。
(画像提供:鋸南町地域振興課まちづくり推進室)
※日本寺へはJR内房線で。ロープウェイ利用の場合は「浜金谷駅」下車、表参道から徒歩で行く場合は「保田駅」にて下車。
いずれにしても自生の水仙が多く咲く土地には、先の水仙三大群生地のみならず、静岡県伊豆の爪木崎や島根県の隠岐島など、海岸沿いの潮風を受ける傾斜地という地形上の共通点が見られます。柳田國男(1875-1962)『海上の道』の例を挙げるまでもなく、園芸家であり評論家であった柳宗民(1927-2006)が唱えたように、水仙の花は中国大陸から球根が海流にのって漂着したものが野生化していったという説の方によりロマンを感じるのですが・・・。
江戸の時代になると鋸南町の水仙は「元名の花」というブランド名で歴史に登場してきます。元名(もとな)は水仙がもっとも多く栽培されていた鋸山の麓の村名です。鋸南町の港は浦賀水道に臨み、漁業も盛んでしたが安房の国の年貢米を運搬する拠点ともなっていました。
水仙、これも氣高く、すっきりした花で有名なる産地は千葉縣保田付近である。これも最初はさんま船の上に、何心なく漁夫の手により、何の野心もなく江戸入りしたもので、その花の風趣が、ひどく江戸人の趣味眼にかなひ今日では野生のものでは不足を告げるので保田町、富浦、内房州一帶茨城縣の一部でも盛に栽培されて居るが、これは其風土が水仙の栽培に好適な事を雄辨に物語つて居る。
経済的な繁栄を後ろ盾として江戸の文化が花開いた元禄の頃、市中では「元名の花」といえば鋸南町の水仙の事を指し、武家の屋敷や裕福な商家などで寒さに耐えて咲く縁起の良い花、正月を飾る花として盛んに賞玩されたという記録が残っています。もちろん生け花や茶の湯の世界でも珍重された事でしょう。
元禄時代と言えば、「見返り美人」や「歌舞伎図屏風」などで知られる浮世絵の祖・菱川師宣(1630?-1694)は、縫箔師吉左衛門の子として鋸南町に生まれました。現在、同町「道の駅きょなん」に隣接する菱川師宣記念館でその肉筆画を含めた作品を観る事ができます。
古い文献上では、儒学者中村国香(1710-1769)が安房・上総を巡り名所や旧跡・伝承を記した地誌『房総志料』の中で「平郡穂田芳浜辺の路傍に水仙多し、暖土なるゆえ花を著(現)くること最も早し、東武の花肆(はなくら=花の市)に出る処のもの是なり」と書いています。
また、寛政の改革で知られる題11代将軍徳川家斉時代の老中首座松平定信が失脚後、元の領地であった白河藩(現福島県)の藩政に専念していた1810年(文化7年)50歳の時、老中時代に自らが提唱した江戸湾警備の命を賜った際に、鋸南町に立ち寄ったという記録が残されています。『南総里見八犬伝』にちなみ名づけられた『狗(いぬ)日記』の中には「保田といふあたりより、水仙いと多く咲きたり」という記述が見られます。
浮世絵版画も残されています。前貢に画像を掲載した三代目安藤廣重(1842-1894)の残した『大日本物産図會』の中の一枚「安房國水仙花」(提供:館山市立博物館)には「温かい気候の安房上総の海辺には美しい六辨の水仙が香り高く群れ咲いている(要約)」と書かれています。すでに特産物としての水仙が広く認知されていた事がうかがえる一枚です。
長い歴史を持つ鋸南町の水仙は、江戸時代に「元名の花として名を馳せ、現在は全国一の産出額を誇るまでに発展しました。水仙の切り花産出額は全国の75%を占め第一位となっています。」
(2005年農林水産省生産農業所得統計より)
農村不況や関東大震災などの被災もありましたが、水仙に限らず内田太郎吉が文字通り「種を播いた」鋸南町の花卉栽培の近代化は、優秀な青年園芸家たちの転住による栽培技術の向上や品種改良などによってさらに大きく花開きました。昭和の時代になると、流通する冬の花のほとんどを安房層産が占めるようになり、現在もこの地方の花卉栽培は重要な特産物として、米や野菜などを抑えて産出額第一位となっています。
水仙の切手@
1961年(昭和36年)に発行された【花シリーズ】の1枚。郵便創業90年記念事業の一環として企画された初のシリーズ切手。当初は春夏秋冬各2種の計8種類が予定されましたが、1〜12月の毎月1回、日本を代表するそれぞれの季節の花が発行されることになりました。水仙のほか、ウメ・ツバキ・ヤマザクラ・ボタン・ハナショウブ・ヤマユリ・アサガオ・キキョウ・リンドウ・キク・サザンカの12種。水仙は1月の花。額面の10円は、当時の封書20gまでの基本郵便料金でした。
水仙の切手A
封書の基本郵便料金が50円(図柄は弥勒菩薩像)だった1976年(昭和51年)に発行された額面60円の普通切手。
水仙の切手B
ちょっと変わり種の水仙切手があります。1975年(昭和50年)の年賀切手として発行された「桂離宮の水仙の釘隠し」を図案に採用したもの。釘隠しとは、和風建築の長押(なげし)に打たれた釘の頭を隠すために取り付けられた内装用金具です。
長押の役割が構造材から化粧材に、釘隠しも実用から装飾品になり、次第に意匠を凝らした釘隠しが多く作られ美術品としての価値を持つようになりました。ちなみに桂離宮の釘隠しは長さ14.2cmで葉が銀、花が金で作られています。
水仙の切手C
2001年(平成13年)に発行されたふるさと切手の福島県篇。これは「スイセン」と共に対で発売された「越前海岸とスイセン」。
ふるさと切手には、2006年(平成18年)に九州7県篇として発行された中に「スイセンと能古島(福岡県)」や、同年神奈川県篇として発行された、4種の花の中に「スイセン」などがあります。
1
2
3
4