今から22年前、昭和61年(1986)花と緑の農芸財団設立と同時に発行された本誌[花の心]の創刊準備号には、「この手さぐりのなかでの提案から、多くの人たちの心のつながりが生まれていくことを願っています」というスタッフの思いと共に、『子どもによせるソネット』と題する一篇の詩が掲載されています。
お寄せ頂いたのは当時72歳の詩人・高田敏子さん。彼女の詩は、その後も創刊当時の[花の心]を何度も彩って下さることになります。


 高田敏子さんは大正3年(1914)9月16日、東京日本橋区(現中央区)の陶磁器卸売商塩田家の長女である母イトさんと、奉公人から婿養子となった父政右衛門さんの次女として生まれます。
母は、「にぎやかなことが好き」「商人にぴったりで、陽気で勝気、機転がきいて、ことに話術は抜群」「もっとおとなしいおかあさんであってほしいと願うこともたびたびでした」と敏子さんが語るように江戸っ子気性の人でした。 料理嫌いで台所に立つことはほとんどなかったという母も、「針を持たない日は気分が悪い」ほどの針仕事好きで、敏子さんも幼少の頃より和裁の腕を磨きます。のちに生活を支えることになる洋裁は「新らしもの好きのすること」と許してもらえず、女学校時代に小遣いを貯めて内緒で習いました。

 

 



 厳しいしつけを受けながら「人一倍のさびしがり屋」だったという敏子さんを慰め、街歩きやカフェや浅草のオペラなどを一緒に楽しんでくれたのが父親でした。しかし、彼女が15歳の節分の夜、大好きで「憧れの男性」「まるで恋人のかわりみたいだった」という父は脳溢血で突然この世を去ってしまいます。更に母も精神を患ってしまい、塩田家を争いの絶えない暗く重い空気が覆います。彼女はどうしようもない孤独感をつのらせ、いつしか死への憧れさえ懐くようになっていたといいます。

 跡見女学校(現・跡見学園)の3年生になっていた彼女と詩との出会いは、そんな暗い時代に射した一筋の光明でした。ひとつ年上の文学少女に見せられた少女向けの文芸誌をきっかけに、詩や短歌を書き始めます。


私が詩を書き始めたのは父の死によるさびしさからであって、突然の死は生のはかなさ空しさとも私には思われた。



 彼女は心の拠り所を求め詩作に熱中し、雑誌の投稿仲間である同じ年頃の娘たちと同人誌「こころ」を刊行します。自分の作品が活字になる喜びや、発行日を待ち焦がれる気持ちが、いつしか買いためておいた睡眠薬のことさえ忘れさせてくれました。詩が「生への引き止め役」になったのです。


 大正という自由な気風の時代にそぐわない明治生まれの母の束縛の中、「求めるものを追い続ける心」を詩作に見いだした彼女でした。内緒で就職試験を受け合格しますが、母の反対で仕事に就く事は叶いませんでした。そして、母や父親代わりの本家の伯父夫婦のすすめで気乗りのしないまま結婚を決意します。相手は兄の友人で商事会社に勤務する高田光雄さん。昭和9年(1934)、20歳のときでした。

独身主義、自由な生活、働く女性というものにあこがれていましたが、結局は残酷な適齢期に追いつめられて、崖のふちから飛びこむような思いで親のきめた結婚に入ってゆきました。

 結婚後、慌ただしく夫の任地である旧満州のハルビン(現・中国黒龍江省の省都)に渡っての新生活。当時、東洋のパリともいわれた活気溢れるハルビンでは接待麻雀で忙しい夫への不満や、異郷で暮らす寂しさを洋裁の腕を磨くことで紛らわす毎日を送ります。翌年に長女(純江さん)を出産。
昭和12年(1937)蘆溝橋事件勃発。彼女が暮らす大陸から軍靴の響きが徐々に高まり、夫の新しい任地・天津で居留民の女性として国防婦人会のタスキを掛け天津駅で上陸してきた日本兵たちへの炊き出し、臨時野戦病院では負傷兵の看護にも就きました。
昭和14年(1939)、5年ぶりに一時帰国。大阪と東京に暮らし次女(喜佐さん)を出産します。この時期の大阪で、はじめて本格的に洋裁学校へ通う時間を持つことができました。
昭和17年(1942)日米開戦の翌年台湾・高雄への赴任。長男(邦雄さん)を出産後、夫が応召。3人の子供を抱え、戦火に逃げ惑い防空壕へ避難する日々、異郷の島での不安な疎開暮らし。彼女は終戦をこの地で迎えます。30歳。


生きていけないような戦争のなかで、生きていることができたのは、防空壕を出たときの一瞬の花の匂い、子どもたちが「お母さん」と呼びかける声、そのようなものに元気づけられていたのだろう。私たちはこわい瞬間の後にも喜びを吸収している。それが人間の生命力だと思う。

 終戦の翌年、徴用の夫を台湾に残して焼け野原と化した東京へ3人の幼子を連れて引き揚げてきます。杉並に住んでいた厳しい母の家での肩身の狭い借間暮らし。当時の国民皆がそうであったように、その日の食べ物にも事欠く日々。持ち出しの許された僅かな現金で、生活の糧にと古道具屋でミシンと姿見を買い求めて洋裁の内職を始めます。そんな折、物資の乏しい時代の書店の店先で雑誌「若草」に出会い再び詩作を始めることになるのです。

終戦になってみると、心の中に虚脱感のようなものが生じ、自分自身を支える"何か"がほしくなったのです。自分自身のつっかい棒になる"何か"が欲しかったのです。それが詩だったわけです。


昭和2年(1927)
小学校の卒業をひかえた数え年14歳のお正月。
翌年の節分の夜、大好きだった父を失い、
家庭環境が大きく変わってしまいます。


大正期の東京・浅草
 


昭和32年(1957)
この2年前に女性4人で創刊した同人誌[JAUNE]のお仲間と。 後に脊髄腫瘍と分かる病を抱えて体調は優れなかったが、
家事と洋裁の仕事の合間に詩や随筆を発表していた頃。
(左:敏子さん、中央:中村千尾さん、右:山下千江さん)

 


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