大正という自由な気風の時代にそぐわない明治生まれの母の束縛の中、「求めるものを追い続ける心」を詩作に見いだした彼女でした。内緒で就職試験を受け合格しますが、母の反対で仕事に就く事は叶いませんでした。そして、母や父親代わりの本家の伯父夫婦のすすめで気乗りのしないまま結婚を決意します。相手は兄の友人で商事会社に勤務する高田光雄さん。昭和9年(1934)、20歳のときでした。
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独身主義、自由な生活、働く女性というものにあこがれていましたが、結局は残酷な適齢期に追いつめられて、崖のふちから飛びこむような思いで親のきめた結婚に入ってゆきました。
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結婚後、慌ただしく夫の任地である旧満州のハルビン(現・中国黒龍江省の省都)に渡っての新生活。当時、東洋のパリともいわれた活気溢れるハルビンでは接待麻雀で忙しい夫への不満や、異郷で暮らす寂しさを洋裁の腕を磨くことで紛らわす毎日を送ります。翌年に長女(純江さん)を出産。
昭和12年(1937)蘆溝橋事件勃発。彼女が暮らす大陸から軍靴の響きが徐々に高まり、夫の新しい任地・天津で居留民の女性として国防婦人会のタスキを掛け天津駅で上陸してきた日本兵たちへの炊き出し、臨時野戦病院では負傷兵の看護にも就きました。
昭和14年(1939)、5年ぶりに一時帰国。大阪と東京に暮らし次女(喜佐さん)を出産します。この時期の大阪で、はじめて本格的に洋裁学校へ通う時間を持つことができました。
昭和17年(1942)日米開戦の翌年台湾・高雄への赴任。長男(邦雄さん)を出産後、夫が応召。3人の子供を抱え、戦火に逃げ惑い防空壕へ避難する日々、異郷の島での不安な疎開暮らし。彼女は終戦をこの地で迎えます。30歳。
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生きていけないような戦争のなかで、生きていることができたのは、防空壕を出たときの一瞬の花の匂い、子どもたちが「お母さん」と呼びかける声、そのようなものに元気づけられていたのだろう。私たちはこわい瞬間の後にも喜びを吸収している。それが人間の生命力だと思う。
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終戦の翌年、徴用の夫を台湾に残して焼け野原と化した東京へ3人の幼子を連れて引き揚げてきます。杉並に住んでいた厳しい母の家での肩身の狭い借間暮らし。当時の国民皆がそうであったように、その日の食べ物にも事欠く日々。持ち出しの許された僅かな現金で、生活の糧にと古道具屋でミシンと姿見を買い求めて洋裁の内職を始めます。そんな折、物資の乏しい時代の書店の店先で雑誌「若草」に出会い再び詩作を始めることになるのです。
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終戦になってみると、心の中に虚脱感のようなものが生じ、自分自身を支える"何か"がほしくなったのです。自分自身のつっかい棒になる"何か"が欲しかったのです。それが詩だったわけです。
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昭和2年(1927)
小学校の卒業をひかえた数え年14歳のお正月。
翌年の節分の夜、大好きだった父を失い、
家庭環境が大きく変わってしまいます。
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