安保問題で騒然とする時代に、あえて主婦としての立場から平易な言葉で日常を描き、難しい暗喩や詩的修飾を捨てた詩の連載は、主婦や働くお母さんたちの圧倒的な支持を得て3年余り続きます。



私たちの毎日は、心配ごとや疲れること、悲しい思いをすることがずいぶん多い。でもなお生きつづけていられるのは何かしら、と思うのだ。それは日常の草むらにかくれている小さな歓び、自然の優しさ、そして、ひそやかな愛の息づきなのではないだろうか。私はそれらをテーマにしたいと思った。



 連載中に第1回武内俊子賞を受賞。後に[月曜日の詩集][続月曜日の詩集](共に河出書房新社刊)として刊行され、詩集としては空前の販売部数を記録します。


 この詩的な転機について、後年発表された彼女の詩集[砂漠のロバ]の解説の中で、大岡信氏がこう記しています。

「毎週詩を書くということは、高田さんにとって全くいい時機にやってきたものだったように思われる。好運というものは、人に必ず一度や二度訪れるものだろうが、高田さんの詩作にとっては『平凡な家庭の主婦』の立場に立って『ありのままの自分を書く』ということが、外側からの要請、すなわち枠組みとして、半ば強制的に設定されたことが、かの現代詩の常套的手法にそろそろなじみはじめていた彼女の詩に、ある種の冷水摩擦的ショックを与える役割をはからずも果たしたように思われるのだ。」



これから私はやっとはじめて、自分自身の詩がかけるのではないかと考えている。良くも悪くもこれが 私なのだと、ただそれだけを思って書くしかない。


昭和55年(1980)
敏子さん65歳の時、中国・離江下りの船上にて。
新婚時代を過ごした中国への愛着は深く、
野火の会主催の旅行を含め度々中国を旅行したことから、
のちに伊藤桂一氏と共に詩誌[桃花鳥]を創刊(日中友好野火の会・刊)。
[桃花鳥]は、第7号を高田敏子追悼号として終刊しました。


 一方で詩壇的評価は低く、一部の詩人たちからは現状肯定のムードに安住して大衆におもねる「お母さん詩人」「台所詩人」と揶揄する言葉もささやかれました。しかし、新聞連載中の彼女の詩に出会った日本中の無垢の「詩人ではない詩人」たちから多くの共感や問い合わせが殺到します。敏子さんは全国の愛読者のために、生活と詩を結ぶ「野火の会」を結成、誰でも入れる詩誌[野火]を昭和41年(1966)創刊することになります。

[野火](隔月刊)は、敏子さんの亡くなるまで一度の休刊も遅刊もなく23年間続き「私、一代限り」の言葉どおり141号を以て終刊しました。


「野火」の発行は、昔の私が思われたからで、発行日をたのしみに、生への結びつきの役立ちになればとの思いからなのだ。


 [野火]創刊の翌年には詩集[藤]により第7回室生犀星賞を受賞。そして、昭和44年(1969)母のイトさんを見送った年の夏、当財団の前理事長故土井脩司氏らが組織した東南アジア学生親交会の4年間に亘るベトナム難民孤児支援の総結集として科学技術館で開催された[ベトナム展](読売新聞社後援)のパンフレットに[花火]という詩をお寄せ頂くことになります。



  花火よ花火
  世界中の火薬よ
  花火になれ
  世界中の火薬作りよ
  花火をつくれ
――――――― 「花火」より



 土井理事長は「このベトナム展で掲げられたテーマは、そのパンフレット『ベトナムの祈り』の最終ページに書かれている一節の詩に象徴されるでしょう。この詩の願いが、4カ年にわたる親交会活動の願いであったと同時に、以後の花の運動へと連綿と受け継がれてゆくのです。」と、後に書き遺しています。当時55歳の敏子さんは、ご子息と同じ年代の若者たちの向こう見ずで一途な平和活動に詩をもってエールを投げかけて下さいました。2年後の「花の企画社」設立の際には、各界の支持者と共に社友として名を連ねて頂きました。


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