家庭人としての体裁をなさぬ夫への口に出せぬ不満、心の通い合わない夫婦関係、愛人の影、幼い子供たちとの小さな諍い、若い頃に抱いていた夢など…胸の中にある遣り切れない思いが再び詩作の世界へと彼女を誘います。


憎しみや嫉妬や利己心、そうした悲しい心をかかえながら、それらを子供をあやすようにしてなだめたり、祈るようにして押し静めたり、そんな努力のくり返しがあって、はじめて人間的ということになるのだろう。


 詩を書くにあたっては、「家庭生活のほかに何か一つ、自分だけのものをもちたくなったから」とも述べています。若手漫画家だった弟・英二郎さんの紹介で現代詩グループに入り、彼女はそこで、「お母さん」でも「奥さん」でもない「高田さん」と呼ばれたことをとても新鮮で嬉しかったと語っています。



詩の集まりで、「高田さん」と呼ばれたときから、私は母親という役目の中での自分を取り戻しました。ほんとうの意味での友人にも恵まれました。


 昭和23年(1948)に新宿区諏訪町に土地を得て「急場しのぎのような」家を建て暮らし始めました。相変わらず不在がちの夫。洋裁の内職に加え、近所の人に洋裁を教え主婦としての役目を全うしながら詩作を続けます。この頃、彼女はデパートの専属デザイナーになれるという懸賞付きの洋服デザインコンクールに応募しています。後に「あの時、コンクールに入選していたら詩は書いていなかったわ」と長女の純江さんに語っています。彼女の望みは、誰からも愛される靴デザイナーとなった次女の高田喜佐さんが叶えることになります。(喜佐さんはオリジナルブランドKISSAを立ち上げ大人のカジュアルシューズで人気を博し、エッセイストとしても活躍。残念ながら2006年、肝内胆管ガンの為に64歳で亡くなりました)



昭和27年(1952)
敏子さん38歳。商社勤務の夫・光雄さんのニューヨーク勤務がきまり、家族で羽田空港へ見送りに行く。
敏子さん(中央)自身の洋服も、子供たちの洋服も敏子さんが仕立てたもの。




詩を書くという作業は、自分をとりまくすべてのものの存在の意味を、あらためて見つめ、探るところにあります。私と子どもとの関係も、単なる母と子というだけではない人間的なつながりを思うとき、私が子どもを育ててきた以上に、子どもによって私が照らされ励まされてきたことが思われます。


 やがて敏子さんは原因不明の体の不調に加え、モダニズムの手法に戸惑い疲れて現代詩グループを退きます。新たに「日本未来派」の同人となり昭和29年(1954)第一詩集[雪花石膏(アラバスタ)]を刊行、翌年女性4人の同人誌と、第二詩集を発表します。この頃の作品について敏子さんは、「現代詩はこう書かなくてはいけないのだという思いこみに縛られ、息苦しくもなっていました」と言っています。
体調はますます悪化し、手足のしびれや突然の高熱に襲われます。幾多の病院での検査でも病名がわからず、徐々に歩行さえ困難になり死への恐怖に怯える日々でした。ようやく脊髄腫瘍と判明し手術を受けます。幸いその後の詩人としての生き方に大きな変化をもたらすこととなる詩作の話が持ち込まれた昭和34年(1959)の暮れには、手術の成功によって奇跡的に健康を取り戻していました。


花が美しい、木々が美しいというのは、その命の美しさを感じるところにあります。命とは活動することであって、つまり役目をはたしている姿です。花も木もせいいっぱいに生き、そして自分の子孫を永続させるために、花を咲かせ、実をならし、その命を充実させて活動しているのです。


 昭和35年(1960)に「日本未来派」をやめ、3月から朝日新聞家庭欄に写真との組み合わせによる詩が週1回掲載されることになります。毎月曜日の夕刊紙に載ったことで「月曜日の詩」と呼ばれました。作品の発表はしていたものの当時は無名に近かった彼女は、「本当の詩をお書きになりたいでしょうが、主婦層を対象に誰でもわかるやさしい、いわゆる詩人の詩でない詩を書いて下さい」と担当デスクから依頼されました。敏子さん自身も単行本化された時のあとがきに「自分も平凡な主婦なのに、そのことに気づかなかったのが恥ずかしい」と述べています。彼女の詩的開眼の瞬間でした。

■「詩の世界」(1972年ポプラ社・刊)
中学生向けに書かれた詩の入門書。国内外の詩を引用しながら、専門的な解説書ではない、敏子さん自身の詩への愛情が込められた随想的な仕上がり。

■「嫁ぎゆく娘に〜さびしさを愛に〜」(1977年大和書房・刊)
日常の中の、悲しみや悩みをどのように慰めいたわりながら自分を力づけて生きてゆくか。若い女性に向けた随筆集。


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