各地での詩作の講師、講演会や新聞・女性誌・社内報などへの原稿の執筆、ラジオでの人生相談やNHK紅白歌合戦の審査員までこなす日々。全国的な組織として発展した「野火の会」の運営や催しに加え、詩誌[野火]の選考・添削・編集作業をもって多くの人々に挺身的な情熱で詩の指導をしました。「母のほうが私より数段無邪気であり、自分に正直であり、純粋で天真爛漫、恥じらいがあり、少女っぽい。」と次女・喜佐さんが語るように、明るく面倒見の良い敏子さんの周りにはたくさんの人々が集まってきます。常時800人以上の会員を擁した「野火の会」の会員が出版する詩集のすべてで、彼女は編集・装丁・紙質の選定・序文の草稿まで手掛けています。


 一方で自身の詩作も精力的に行いほぼ毎年、詩集や随筆集を出版し充実した日々を送ります。[娘に伝えたいこと][やさしさから生まれるもの][娘への大切なおくりもの](いずれも大和書房刊)に代表される女性の生き方を語り継ぐ随筆集や、中学生向けの詩の入門書として今も読み継がれる[詩の世界](ポプラ社刊)もこの時期の刊行です。


生きることに馴れず、おそれと、よろこびを持って日々を受けとめてゆく心が「青春」なのでしょう。私はいま自分のしていることの一つひとつを思ってみると、青春時代の夢につながります。いまになって、青春を生きている思いなのです。


 3人の子供たちはすでに母からの巣立ちを終えていました。そんな中、彼女は62歳で日常の暮らしをそのままに自ら申し出て協議離婚をしています。敏子さんの心の中の澱。この事実は彼女が亡くなるまで「父が無意識のうちに負わした母の心の傷の癒しは、難しいと思った」と述べる長女の純江さん以外、誰にも語られることはありませんでした。




 昭和61年(1986)、花と緑の農芸財団の船出にあたって冒頭の詩[子どもによせるソネット](同頁掲載)をお寄せいただいて間もない敏子さんに、死の影はゆっくりと忍び寄ります。離婚後も同居していた夫を見送り、ひとり暮らしが4年目を迎えた昭和63年(1988)の3月。73歳の彼女は胃の不調と疲労感を訴え入院していた病院で胃の全摘手術を受けます。ガンでした。9時間に及ぶ手術は無事に終了。3人の子供たちはリハビリでの回復を祈ってガンの告知をしないと決めます。彼女は自宅での療養を望み、詩誌[野火]の選考や打ち合わせ、詩作の講座も再開します。病後の痛みに耐えながら杖を使っての外出が可能になったのは、「昭和」が終わり「平成」の時代になってからでした。第3回ダイヤモンドレディ賞の授賞式へ、大好きだった紫色のチャイナドレスを新調して出席されたのもこの頃です。大手術から1年4ヶ月、「体に心を添わせて」生きてきた彼女は再び入院します。ガンは腹部全体に広がっていました。意識ははっきりしているものの、体力の衰えは激しくなる一方です。苦しみに耐える敏子さんの最期の8日間は、長女・純江さんの著書「母の手〜詩人・高田敏子との日々〜」で回想されています。
平成元年(1989)5月28日午後2時20分、永眠。74年8ヶ月の生涯でした。



人が 一人黙して坐っているときの姿は
さびしく 暗く
花のように 黙していても明るく
そこにあることは出来ないらしい
――― 「海辺で」より

 


 詩作のために机に向かう姿を家人に見せることなく主婦として明るく振る舞い続け、「詩人」と呼ばれることを終生恥じたという高田敏子さん。自らの羽をとって機を織る鶴の如く、一つひとつの作品を紡ぎ上げて生きました。現代、私たちは情報のシャワーに常にさらされている事へのストレスや忙しさの中でしばしば自分を見失い、時として非日常への期待や憧ればかりを追いかけてしまいがちです。しかし日常の中にこそ愛すべきこと、大切なことがあるのだと彼女の詩は教えてくれます。そして我々と平和を希求する花の心を共有し、今も力を与えて続けて下さっているのです。

高田敏子さん(法名=翠光院紫游妙敏大姉)は、
富士山を望む霊園で喜佐さんと共に眠られています。
御影石の碑には、『敏子の墓』と彫られていました。
また、千葉県館山市安房自然村に「布良海岸」、
東京都新宿区諏訪公園に「かくれんぼ」の詩碑が没後建立されています。






新・日本現代詩文庫31「新編 高田敏子詩集」(土曜美術出版販売・刊)

…高田敏子さんの詩集や随筆の多くが絶版となっている中、2005年に再版された新編詩集。作家・伊藤桂一氏と久冨純江さんが解説を書かれています。他に全作品に出会えるのはお亡くなりになった翌月、1989年6月に花神社が出版した「高田敏子全詩集」、また当初河出書房新社から出版された「月曜日の詩集」は、2004年3月に(株)日本図書センターより再版されています。

「母の手〜詩人・高田敏子との日々〜」 (著者=久冨純江/光芒社・刊)

…高田敏子さんの長女・純江さんが2000年に出版された随筆。純江さんは日本女子大学国文科卒業。ご結婚後にお菓子と料理の教室を主宰されながら、母親・高田敏子さんの講座のいち受講生として詩作を学び、「詩集 クッキングポエム〜風車〜」(教育出版センター・刊)を出版されました。

「太陽と靴と風と」
(著者=高田喜佐/河出書房新社・刊)

…高田敏子さんの次女・喜佐さんは、多摩美術大学デザイン科を卒業後シューズデザイナーとなり雑誌や広告・ファッションショーのための靴作りを経てブティック「KISSA」をオープン。また、「ジャズマンは黒い靴(マガジンハウス・刊)」「素足が好き(大和書房・刊)」「大地にKISSを(文化出版局・刊)」「暮らしに生かす江戸の粋(集英社be文庫・刊」などエッセイストとしても活躍されました。2006年の喜佐さん他界後、(株)キサは弟の高田邦雄さんやスタッフがその思いを引き継いでおられます。
KISSAのHP=
http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~kissa/

昭和61年(1986)
ご自宅の応接間にて、敏子さん70歳。
書籍と共に、旅先でもとめた人形や
貝殻、小石、松ぼっくり、お手玉、おはじき……
小物がたくさん飾られた応接間は、
詩の勉強会、詩誌や詩集の編集、
仕事や相談事に訪れる人々でいつも賑わっていました。

  「まあ たのしいお部屋!」そう言っていただくとき
  私は 幸せな思いに満たされる
  私の人生にもあった山坂のつらさも
  たのしい風景に変わっている
  「いつまでもいたくなる部屋」 ―――

当財団前理事長の故土井脩司氏や
OBたちも度々訪問させて頂いたようです。




[探] ――― 生活者の詩・高田敏子さんの生涯
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今回の企画に際し、高田敏子さんのご長女・久冨純江様より一方ならぬご助力を賜りました。大切なお写真を貸与下さったばかりでなく、編集にあたっては貴重なアドヴァイスを頂戴することができました。ご長男・高田邦雄様にも煩瑣なお取り次ぎの労をとって頂きました。また、東南アジア学生親交会時代のメンバーや花の企画社OBの皆さんにも貴重なお話しを伺いました。この場をおかりして心より感謝申し上げます。 ありがとうございました。
(編集小子)


■以下の文献・HPより引用、参考にさせていただきました。
「月曜日の詩集」高田敏子・著(日本図書センター)/「詩の世界」高田敏子・著(ポプラ社)/「娘に伝えたいこと」高田敏子・著(大和書房)/「やさしさから生まれるもの」高田敏子・著(大和書房)/「ひとりの午後」高田敏子・著(PHP研究所)/「わが詩わが心(1)(2)」高田敏子・編(酣燈社)/「嫁ぎゆく娘に」高田敏子・著(大和書房)/「高田敏子詩集」小海永二・伊藤桂一:監修(土曜美術出版販売)/「母の手〜詩人・高田敏子との日々〜」久冨純江・著(光芒社)/「風車〜クッキングポエム」久冨純江・著(教育出版センター)/「靴を探しに」高田喜佐・著(筑摩書房)/「裸足の旅は終わらない」高田喜佐・著(学習研究社)/「二十歳の世代へ伝えたい」(PHP研究所・編)/「FOR LADIES BY LADIES〜女性のエッセイ・アンソロジー〜」近代ナリコ・編(筑摩書房)/石川敏夫Official Site「詩のある暮らし」 他

本記事は2008年春に発行の「花の心第49号」に掲載されたものです。 

雨の日の花/花のこころ/子どもによせるソネット
日本文藝家協会 許諾番号85312


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