オレンジ畑で生計をたてながら執筆に集中できる環境を得ようとクロス・クリーク村へ移住してきたものの、この村の文化や暮らしが小説の素材になるとは思っていなかったマージョリーでした。しかし編集者パーキンズのアドヴァイスによって、村での実生活に根ざした作品こそ、自分の方向性であると決心してからのマージョリーは、劇的に変わりました。



春の日の歓喜は、少年の心に強烈な痕跡を刻むことになった。その後ずっと、四月になって緑が淡く芽立ち、雨の味を舌に感じる季節になると、ジョディの心は古い傷がうずき、ぼんやりと紗のかかった記憶への郷愁でいっぱいになるのだった。(M・K・ローリングズ著/土屋京子訳『鹿と少年』第1章より)




 少女時代の週末、父と郊外の農場で過ごした「魔法のように美しい自然に魅惑された気持ち」を思い出した彼女は、より積極的にクラッカーたちと交流を持つようになりました。都会での憂鬱と芸術的なフラストレーションにより、頑なで情緒不安定な性格になっていたマージョリーでしたが、元来の明るさを発揮しはじめ、面倒見良く、雇ったメイドや作男にも慕われ、村人たちからも大いに歓迎されました。そして彼女の創作ノートは次々と新しい言葉で埋め尽くされていきました。クロス・クリーク村の人々のこと、フロリダの自然や植物、様々な生きもの、南部の方言やしきたり・歴史・文化、郷土料理のレシピ等々。クラッカーたちから花や樹木について学び、気候や地理を知り、教わったばかりの郷土料理をキッチンストーブで楽しみ、あたかも植物学者や民俗学者のフィールドワークのごとく村の隅々を駆けめぐりました。翌年(1932年)の6月にはハーパーズ・マガジン誌(Harper's Magazine)に掲載した短編『Gal Young Un(森の女)』で権威あるオー・ヘンリー賞(The O. Henry Award)を受賞、こちらでも500ドルの賞金を得ました。マージョリーは36歳、クロス・クリーク村へ来てから4年。移住する際に起こした夫チャールズへの離婚申し立てがようやく認められ、独身に戻りましたが使い慣れたローリングズというサード・ネームはペンネームとして生涯使い続けることにしました。


 1933年(昭和8年)1月に彼女は初めての単行本『South Moon Under(満潮時)』をパーキンズの出版社から刊行しました。初版はわずか2,500部でしたが、売れ行きが好調で2ヶ月後には増刷が決定しています。この本は、のちに普及版の文庫本(paperback)になると共に、圧倒的な発行部数(1,300万部)と大きな影響力をもつ軍隊(第二次世界大戦時)への配給書籍に加えられ、ピューリッツァ賞の最終選考にも残りました。2年後の1935年には第2弾の単行本『Golden Apples(黄金の林檎)』を出版します。マージョリーが全幅の信頼を寄せる編集者パーキンズは、どんな時でも執筆への協力を惜しみませんでした。また友人として様々な相談にのり、作家仲間との橋渡しもしています。アーネスト・ヘミングウェイ、F・スコット・フィッツジェラルドをはじめ、『Look Homeward, Angel(天使よ故郷を見よ)』のトーマス・ウルフ(Thomas Clayton Wolfe/1900〜1938)、『North of Boston(ボストンの北)』『A Boy's Will(少年の心)』で知られる詩人ロバート・リー・フロスト(Robert Lee Frost/1874〜1963)等々。しかし、彼女はいわゆる[失われた世代(Lost Generation)]と呼ばれたヘミングウェイたちのように従来の価値観を否定しアメリカ文明に対し懐疑的で、時には享楽的ですらあった作家群とは一線を画していました。


みんな、自分がほんとうに欲しいのは何なのか気がつかないのよね、手遅れになるまで。
(M・K・ローリングズ著/土屋京子訳『鹿と少年』第26章より)

 超然と時代を見据え、自らの才能を信じながら隠遁者のようにストイックな創作活動を送る日々。やがて『South Moon Under』等の好評を受け、名編集者パーキンズに導かれた彼女の成功の時は徐々に近づいてきていました。

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