マージョリーは1942年(昭和17年)4月、46歳の時に『CROSS CREEK(クロス・クリーク)』を出版。これは、都会でゴチック・ロマンス小説を書いていた女性作家が夫の反対を押し切って、クロス・クリーク村というフロリダの田舎に土地を買って移住するという、マージョリー自身の生活記録ともいえる自伝的な随筆。村で出会った様々な人々、幾つかの事件を乗り越えながら作家としての栄光をつかみ、次第に土地に馴染んでいく力強い女性=自分自身の姿を描きました。日本では1951年(昭和26年)に、村上啓夫(1899〜1969)の翻訳により邦題『水郷物語』として出版されています。



 実は、この『水郷物語』にはマージョリーの出世作『子鹿物語』の元になるエピソードが描かれています。ジョディ少年と同じ体験をした少女エリーが登場するのです。子鹿を飼った経験を持つこの少女のモデルとなった女性本人の話をマージョリーから伝え訊いた編集者パーキンズが、1884年に書かれたマーク・トウェイン(Mark Twain/1835〜1910)の『ハックルベリー・フィンの冒険(The Adventures of Huckleberry Finn)』を例に挙げて、【少女】を【少年】に置き換えた方がよりリアリティが増すというアイデアを提供したのだといわれています。また、『水郷物語』の中では、クロス・クリーク村に来てから本格的に覚えた数多くの料理が登場します。それはアメリカ人にとっては郷愁をかきたてる料理の数々であったようです。戦地で味気ない食事と常に空腹感に苛まれている軍人からのファンレターには、『水郷物語』を読むことはまさに拷問である、と記されていたといいます。食事というものが体だけではなく精神の滋養に重要である、という考えはこの本の一貫したテーマでもあり、食事を共にすることで村人とマージョリーの距離を縮める効果も小さくなかったことも事実です。
同じ年の11月には読者からの要望で『Cross Creek Cookery(クロス・クリーク料理法)』というスピンオフ本が出版されました。マージョリー自身が編集に携わり、エッセイや逸話を含めたレシピ集として、当時のアメリカ人でさえ少々「古くさい」と感じるような南部地方の古典的田舎料理を忠実に再現しました。


 

『水郷物語』の出版は、予想もしなかった不幸な事件ももたらしました。マージョリーにとって、クロス・クリーク村で出会った人々はかけがえのない存在でした。ゼルマ・ケイソン(Zelma Cason)という女性もそんなひとりでした。移住直後から親交は深まり、一緒に狩りや釣りやピクニックに興じました。マージョリーは『水郷物語』を書き上げたとき、真っ先に親友であるケイソンを訪ねました。しかし、小説を読み終わった彼女の反応は意外なものでした。「あなたは私をモデルにして、まったく別のおてんば娘を生みだしてしまった」と激しく非難し始めたのです。その日、長時間話し合い、ケイソンの怒りを静め、理解して貰ったと感じたマージョリーは彼女と抱擁をして帰ってきました。しかし、マージョリーは見誤っていました。出版の翌年(1943年)にケイソンは名誉毀損で彼女を訴えたのです。著名な作家が、その作品に登場する人物から名誉毀損で訴えられるという、当時としては前代未聞の訴訟スキャンダルでした。フロリダ州で初めての事案であり、高額な要求額は他の作家たちにとってもショックな出来事としてマスメディアも大きく取り上げました。当初マージョリーの弁護士は、裁判をしないで示談金による解決を提案しますがプライバシーの侵害や名誉毀損に関する協議は平行線を辿り長期戦となってしまい3年を経て、1946年に最高裁にまで持ち込まれました。

 この間、作家としてのマージョリーは1945年にニューヨーカー誌(New Yorker)に発表した短編小説『Black Secret(黒い秘密)』でオー・ヘンリー記念賞を受賞。1946年、50歳のときに映画[The YEARLING(子鹿物語)]が全米で公開され大評判となりました。グレゴリー・ペック(Gregory Peck)、ジェーン・ワイマン(Jane Wyman)主演、テクニカラー(総天然色)による映像は美しく作品賞や監督賞など主要各部門でアカデミー賞にノミネートされました。最終的にはジョディ少年役を好演したクロード・ジャーマン・ジュニア(Claude Jarman Jr.)が特別賞を受賞したほか、撮影賞、室内装飾賞、室内装飾美術賞の三冠を受賞しました(日本では昭和24年に劇場公開)。

 



  マージョリーは作家として、自伝や私小説を書く際のフィクションとノンフィクションの境界線を不明瞭のままにしてはいけないと思い、この裁判に果敢に挑みました。安易に和解に応じてしまうということは他のすべての作家を裏切ってしまうことである、とさえ思っていたのです。
 訴えから5年半、1947年に下された最高裁最終判決において裁判長は、ケイソンの訴えであるプライバシーの侵害に関してマージョリーに補償をするべきとの判断を下しました。また同時に、『水郷物語』の出版は名誉毀損や、登場人物を中傷するに値するものではないとも述べています。マージョリーに対して解決金【1ドル】の支払いと、訴訟費用の全額を支払うように命じました。長い裁判は、マージョリーの感情や感傷を置き去りに、ただただ心身共に疲れ果てるだけの戦いでしかありませんでした。そして結審からひと月も経たない6月17日、生涯の恩人である編集者パーキンズが63歳の若さでこの世を去り、失意のマージョリーをさらに打ちのめしました。パーキンズなくして今日のマージョリーの成功はありませんでした。担当編集者というだけでなく彼女の人生のプロデューサーのような存在でした。長引いた裁判とパーキンズの死は、彼女にとって回復しがたい苦痛を与えることになり、その後の数年間は、新作を発表することさえ出来ませんでした。

死なずにすむ生き物はないんだよ、ジョディ。それが慰めになるかどうか、知らんが。〜(中略)〜これは、どうにもならん石の壁みたいなもんだ。だれにも、乗り越えることはできん。蹴とばそうと、頭で突こうと、叫ぼうと、だれも聞いちゃくれんし、だれも答えちゃくれん。(M・K・ローリングズ著/土屋京子訳『鹿と少年』第20章より)


やがて彼女は再び書く意力を取り戻しました。1953年、4冊目の単行本『The Sojourner(過客)』を出版し、新たな執筆準備にも入りました。それはアメリカ現代南部文学の先駆者としてマージョリーが尊敬する女流作家エレン・グラスゴー(Ellen Anderson Gholson Glasgow/1873〜1945)の【伝記】を書くというまったく新しい試みでした。しかし残念ながらその上梓を果たせず、12月14日に脳内出血のためにマージョリーは急逝してしまいました。
 クロス・クリーク村へ移住して25年、57歳の短い生涯でした。

 その後1955年に遺稿として『The Secret River(秘密の川)』という童話が出版され、児童文学界で最も権威あるニューベリー賞(The Newbery Medal)の次点に選ばれました。『子鹿物語』は世界中の多くの国で今なお版を重ね続け、前述の書簡集や、文芸誌などに寄せた短編を集めた短編集、評伝・伝記、没後原稿が発見された【自叙伝】など多数が刊行されています。


鹿と少年
光文社古典新訳文庫
(上巻/下巻)
「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」。児童文学の殻を打ち破った画期的新訳による、かつての『仔鹿物語』。自然と対峙し、人生の苦しみを知って少年は大人になっていく。
著者=マージョリー・キナン・ローリングズ
訳者=土屋京子  発行=株式会社光文社


■上巻 ISBN978-4-334-75153-1 定価 ¥743+税
■下巻 ISBN978-4-334-75154-8 定価 ¥762+税

訳者:土屋京子(つちや きょうこ) 翻訳家。1956年愛知県生まれ。東京大学教養学部教養学科アメリカ科卒業。英字誌編集者を経て、現在に至る。ベストセラー『Wild Swangs(ワイルド・スワン)/ユン・チアン(Jung Chang)著』や、『The Secret Garden(秘密の花園)/バーネット(Frances Eliza Hodgson Burnett)著』などの他、『a new brand world(なぜみんなスターバックスに行きたがるのか?)/スコット・ベドベリ(Scott Bedbury)著』、『The Happiese Baby on the Block(赤ちゃんがピタリ泣きやむ魔法のスイッチ)/ハーヴェイ・カープ(Harvey Karp. M.D.)著』など話題の本の翻訳者として知られる。


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