第一次世界大戦(1914〜1918)を終えたアメリカは、未曾有の好景気の時代を迎えましたが、それが富の偏りの上に成り立っているバブル景気であることによる反動からか禁酒法、組織化された人種差別や外国人排斥運動、移民禁止法などネガティブな動きが顕著になりはじめました。そして遂に1929年10月、ニューヨーク証券取引所で株価が一斉に大暴落。驚異的繁栄を誇ったアメリカの破綻は、ヨーロッパ諸国や日本へも波及し[世界恐慌]の引き金となりました。資本家は一斉に労働者を見放し、大都市にあふれた失業者が配給に長蛇の列をつくり、犯罪が急増、西部の大規模農家が次々と没落し、かつての繁栄の影はどこにもなくなっていたのです。そんなアメリカが各地での大規模デモや共産主義運動の沈静化に躍起になっている間に、ヨーロッパなどでは民族主義や帝国主義に裏打ちされた国家主義(ファシズム)が台頭、国家生存のための侵略行為としての新たな植民地獲得へと突き進み、1939年9月に第二次世界大戦が勃発するのです(1941年12月には日本も参戦)。

大恐慌の末期的状況下にあって、諸々の社会問題、現代の思想、アメリカの生活が生み出す諸々の圧迫や緊張から、これほど超然と孤立している作家は他にあろうか。記者として、これらの渦中にあった著者は、それだからこそ、相対的な価値観ではなく、むしろ絶対的価値観にこだわり、意図的に、経験をもっとも素朴な、しかも普遍的な形で提示しようと試みたことの成果がこの作品となったのだ。 
(吉田和夫富山大学教授『アメリカンベストセラー小説38』より)

多くのアメリカ国民が自信を失っていた時代に、かつて開拓魂を持って困難に立ち向かっていた頃の剛健な精神と誇りを取り戻したいと願った人々に『子鹿物語』は広く受け入れられたのではないでしょうか。それは翌年(1940年)に同じくピューリッツァ賞を受賞したのがジョン・スタインベック(John Ernst Steinbeck/1902〜1968)の『TheGrapes of Wrath(怒りの葡萄)』であったことからも窺い知ることができます。大恐慌の下で、干ばつや砂嵐といった自然の驚異と農業の大型機械化によって土地を奪われ、仕事も誇りも失った小作農民一家が資本家や自然と闘う波乱の人生を描いた作品です。






▲初版本にも使用されたE・シェントンの扉絵
だれだって、人生がいいものであってほしいと思うし、楽に生きたいと思う。たしかに、人生はいいものだ。すごくいいものだ。だが、楽ではない。人生は人間をぶちのめす。立ちあがると、またぶちのめす。〜(中略)〜ぶちのめされたら、どうするか?それが自分の背負うものだと受けとめて、前に進むしかないんだよ。
(M・K・ローリングズ著/土屋京子訳『鹿と少年』第33章より)










 『子鹿物語』という一篇の小説を構成する様々なエピソードや、登場人物たちを【時代】という視点から捉え、改めて【新完訳】を読み直してみると、後年映画化された際の邦題や、NHKが1980年代に制作したテレビアニメーション、各地で上演されてきた人形劇などで永く日本で定着している『子鹿物語』というタイトルは相応しくない、誤訳に近いという考え方があることも理解できるというものです。単なる教訓じみた児童文学の枠に収まりきれない小説のスケール感、奥深さに圧倒されます。生きる勇気をもらった気分にさえなれます。

 マージョリーは『子鹿物語』の取材に際しては、フロリダ開拓民のパイオニアたちと数週間暮らしながら様々なことを学んだといいます。共に月光浴をしたり、釣りはもちろん危険なワニ狩りや熊狩りにも参加。むき出しの自然の中で、彼女は旺盛な独立心を持って力仕事にも汗を流しました。

それにしても、これが女の書く文章だろうか。著者マージョリー・キナン・ローリングズは、名前からしても、また原書の裏表紙に印刷されている顔写真を見ても、たしかに女性である。しかし、クマやシカやオオカミを狩る場面の豪快かつ迫真の描写、未開の地に生きる男たちの汗と泥にまみれた体臭すら漂ってきそうな粗野でユーモラスな会話など、まるで男の目で男の世界を見てきたような勢いがある。かと思うと、独特な言葉づかいでフロリダの美しくダイナミックな自然を描写し、少年のナイーブな心を優しくこまやかな観察眼でとらえる。ねたましいほど緩急自在の筆だが、翻訳は一筋縄ではいかなかった。
(M・K・ローリングズ著/ 土屋京子『鹿と少年』訳者あとがきより)

 



 1940年、短編小説集『When the Whippoorwill(ヨタカ)』を出版。国民的な作家となったマージョリーは、いろいろな場所で公民権運動や人種差別問題についての公的な発言もするようになります。インド初の女性首相インディラ・ガンジー(Indira Priyadarshini Gandhi/1917〜1984)や、黒人女性解放史に名を残す、教育者であり政府の要職にも就いたメアリ・マクラウド・ベヂューン(Mary Jane McLeod Bethune/1875〜1955)、フロリダ出身の女流作家ゾーラ・ニール・ハーストン(Zora Neale Hurston/1891〜1960)らとも交流を持ちました。フロリダ大学より文学博士号を授与された1941年、45歳の時にホテル支配人のノートン・バスキン(Norton Baskin)と再婚。ノートンは、マージョリーがクロス・クリーク村に移住して以来、何くれとなく彼女の面倒を見てくれていたのです。

一度や二度、どうしようもない男に惚れてみるといいのよ。まともな男をありがたく思うようになるから。
(M・K・ローリングズ著/土屋京子訳『鹿と少年』第12章より)








 マージョリーは、執筆活動を行うためにクロス・クリーク村のほかに新たに購入したビーチハウスや、ニューヨーク州の中部にあるヴィラを行き来していて不在がち。経営するホテルのあるセント・オーガスティン(St. Augustine)に常駐のノートン。ふたりは共に暮らす日数がひと月の半数にも満たなかったといいますが、頻繁に手紙を交わしながらの一風変わった結婚生活を順調に過ごしていました。交友関係が広く、動物を愛し、自然を愛する彼女を慕う人は多かったようですが、一方で情緒不安定で、プライドが高く、当時の作家仲間が例外なくそうであったように愛煙家でアルコールに溺れやすいマージョリーをしっかりとした愛情で受けとめることが出来たノートンは、彼女にとってかけがえのないパートナーとなりました。マージョリーとノートンが交わした膨大な量の手紙は後年、プライベート書簡集『The Love Letters』として出版され、現在はフロリダ大学の研究室によって管理・公開されています。



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