徐々に封建社会が綻び初め、幕府が弱体化していきます。佐幕派・勤王派・倒幕派…血気盛ん故の血生臭い時を経て時代は明治になり、日本の近代化が始まりました。1873年(明治6年)の地租改正によって、それまで米そのものを税としていた制度が、その収穫量を基にした地価に応じた現金で税を納めるようになり、お米の商品としての価値が上がっていきました。

2005年(平成17年)にJR宇都宮線開業120周年の記念として復刻発売された日本最初の駅弁…値段は5銭。当時の小学校教諭の初任給が月棒8円(参考F)でしたから、現在の価格に換算するとおむすび弁当は1,500円相当になり高級品だったことがわかります。
(画像提供:WEB SITE 駅弁の小窓)



 文明開化が進み、日本各地に鉄道網が敷かれるようになりました。1885年明治18年)になると開通間もない日本鉄道の宇都宮駅(栃木県)前の白木屋旅館が、黒胡麻をまぶしたおむすび2個(具は梅干し)とたくあんを竹の皮で包んだ日本最初の駅弁を売り出しました。(参考G)(日本最初の駅弁については、この他にも様々な説があります)

 学校給食のはじまりもおむすびでした。
日本ではじめて学校給食が始まったのは明治22年、現在の山形県鶴岡市で、お寺の境内に僧侶が建てた忠愛小学校で、弁当を持ってこられない子どもたちのために、僧侶が食事をたべさせたというのが始まりといわれています。(参考H)
庄内藩の城下町として栄え、町制施行により「町」になったばかりの鶴岡町(現鶴岡市)の大督寺でのことです。メニューはおむすびと焼き魚。大督寺山門の傍らには、現在「学校給食発祥記念碑」が建てられています。

 明治初期の規則によると、陸軍では毎日一人あたり米六合と「菜代」金六銭余の支給が定められていました。それが1894年(明治27年)7月から始まった日清戦争や、日露戦争(1904〜)の頃になると、様々な戦略的理由から携帯用の兵糧として米食のほかにビスケットや乾パンも併せて採用されています。しかし、前線部隊では「やはり米の飯でないと力が出ない」としてたいへん不評だったようです。

日清戦争直後の豪健な気風が漲っている時代〜(中略)〜二人の従兄は毎朝、弁当を手拭に包んで、それを腰にぶら下げて登校した。その弁当の名は弾丸(後に日の丸弁当)、芯に大粒の梅干一つを嵌め込んだおむすびで、焼海苔でくるんである、両手の指が辛じて周囲をめぐる程、巨きなものだった。それを正午の合図である大砲の音と同時に北京城を乗取る意気込みで喰い始める(参考I) と記憶し、年嵩の軍国少年たる従兄への憧れを振り返るのは、当時小学生だったフランス文学者辰野隆(1888−1964)です。

 明治時代も後半になると都市部では白米が常食となっていきますが、それは単に白米の美味しさや、国民生活の豊かさばかりが理由ではなかったようです。相変わらずお米を炊くのはカマドや七輪、燃料は薪や炭だったので(ガス七輪などが既に開発されていたものの一般家庭に石油コンロが普及するのは戦後、LPガスや電気炊飯器の登場は昭和30年前後から/表@参照)、炊飯燃料の調達が困難、しかも役人や教師、学生が多く住む都市部では朝一度炊くだけで保存ができて、腐敗しにくい白米が適していたこともその要因のひとつと考えられています。炊いたお米はお櫃に入れて保存し、時間が経ってから食べることの多いおむすびにするのにも都合が良かったのではないでしょうか。しかし、こうした豊かな食生活はあくまで都市部だけのものであり、地方では、一部富農以外ほとんどの農民は「かて飯」を主食にしていました。「かて飯」とは、お米にアワやヒエなどの雑穀、ダイコンやイモなどを増量剤として混ぜたご飯や麦飯のことです。
 風呂敷弁当を持ち歩く姿が多く見られる様になった時代、作家の夏目漱石(1867−1916)が明治30年頃に熊本へ英語教師として赴任していた頃、漱石の自宅へ寄宿しながら旧制高校へ通う大食漢の書生について、当時新婚の妻鏡子は弁当箱に入れてお昼を持たせてやると、弁当箱を持ち帰ったことなしで、いくら女中が小言を言っても、次の日はやはり手ぶらで帰って来ます。そこでしかたなしに大きな子供の頭ほどもあるおむすびの中に梅干しを入れて持たせてやるようにして、これでようやく弁当箱の難をまぬかれました。(参考J)と、後に語り残しています。



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