戦時中東京に住んでいた作家の佐多稲子(1904−1998)による回想です。もちろんこのおむすびは「かて米」だったことでしょう。日本各地で米軍による無差別攻撃が始まると、空襲で焼け出された人々への炊き出しが各地で行われました。避難所では助け合いと相互監視のために結成された隣組や、婦人会などによってたびたび大量のおむすびが配布されたという記録が残っています。やがて敗戦が濃厚になってくると都市部での食糧不足が深刻化、炊き出しを行うどころではなくなっていきました。配給の遅配や欠配が多くなった頃には、かつぎ屋やヤミ屋が横行し、違法な闇市が各所にできていました。
山路君(知人)の談「私も二円ぐらいだったら買って喰おうかと思ったんですが、十円だって言うんで、驚いて止しちゃいました」と、これは、新宿駅で秘かに売っている、握り飯のことである。握り飯一箇、金十円也!その闇屋は、蜜柑箱に沢山入れて、売っていたそうだが、百コで千円の商をする訳だ。〜(中略)〜この日私は、一時間に亘る講演をして、謝礼の外に、御中食代金二十円を受領したが、なるほどこれで握飯二コ喰える次第だ。
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▼隣組によるおむすびの炊き出し風景。1945年(昭和20年)7月4日撮影。
毎日新聞社「昭和史第12巻」空襲・敗戦・占領より) |