食生活は豊かに、西洋化されていきました。当時の「厚生白書」では、白米食偏重による栄養摂取のアンバランスを盛んに問題視し、主食に占める米食の比率が戦前の8割以下に低下しました。「お米を食べるとバカになる」といったトンデモないデマまで飛び交いましたが、人々はおむすびを求めていました。
 都会に単身赴任者や若い労働者が増えたことで、それまでは家庭の手作りがあたりまえだったおむすびが「商品」として売り出されるようになりました。惣菜店、町の小料理屋、あるいは餅菓子屋の店頭で売られ、さらにおむすび専門店も誕生しました。当初はひとつひとつ手で結んでいたおむすびを大量生産するため、「押し型(抜き型)」によって成形することが常態化していったのもこの頃です。オフィス街で働く女性たちの間でにわかなおむすびブームが興き、喫茶店のランチメニューに登場したおむすび定食が人気を博します。おむすびの具(芯)に、たくさんのバリエーションが加わり始めました。




多種多様な具のおむすびが並ぶ専門店。写真は大手チェーン店の秋葉原店。Photo by Word Ridden

 今振り返れば、終戦直後の飢餓・物不足への反動だったのでしょうか。「消費は美徳」とばかりに環境破壊や公害問題、ごみ問題、過疎問題を置き去りにしながら国民全体が物質主義の消費社会へと突っ走ってゆきました。多くの主婦がパートタイマーに出て、共稼ぎ家庭が増え、高い購買力を持つようになりました。同時に家庭での食の簡便化が進み、その頃激増した「鍵っ子」や受験生の夜食用として、発売されたばかりの「即席ラーメン」やレトルト食品と共におむすびは大いに活用されます。
 おむすびが商品化される時代になったとはいえ、多くの一般の家庭ではおむすびを「買う」ことには、まだまだ抵抗がありました。しかし、この常識が根底から覆される時代が来ました。
 「強敵」!コンビニおむすびの出現です。


昭和の大災害のひとつ、1969年(昭和44年)9月の伊勢湾台風のことを、元NHKアナウンサーで作家の下重暁子(1936〜)が書いています。早朝から丸一日何も食べずに取材を終え、寮の近くの先輩宅での事。その家も、窓ガラスが割れていたが、奥さんは食べ物のない人のために炊出しをしていた。皿や盆やありったけの食器の上に塩だけのおにぎりが並んでいた。ごはんの湯気と香りの中で、おにぎりを二つ手にした。おいしかった。いままで食べたなによりも。(参考N) 以降、着の身着のまま半年間、一日の休みも無く取材に駆け回った原動力が、この日のおむすびであったと振り返っています。


 1969年(昭和44年)にはお米の自主流通米制度が始まりました。1970年(昭和45年)、日本万国博覧会が開催されたこの年は、日本の「外食元年」と呼ばれています。ファミリーレストランやファストフードの第1号店が誕生、同時に米余りがおこり、政府が減反政策に乗り出した年でもあります。さらに終戦直後に生まれた団塊の世代の人々が郊外の団地や戸建てに住み、ニューファミリーと呼ばれ、ライフスタイルの多様化が進んだことに連動する形でコンビニエンスストアが徐々に一般化します。やがて24時間営業の店舗が登場するや瞬く間に店舗数が激増・全国化しました。当初、商品としてあまり重きを置いていなかったサンドイッチやお弁当といった日配食品が売れるようになり、おむすびがコンビニの主力商品になってゆきます。そしておむすびと海苔を別包装にする専用フィルムが考案され、「手巻きおむすび」が大ブームとなるに至って、家庭の手作りおむすびは、コンビニおむすびに完全に取って代わられました。その後は、皆様ご承知のようにコンビニ各社が綿密なマーケティングによって消費者ニーズを先取り、競い合い、 季節毎におむすびの新商品を次々と発売し、現在に至ります。



日本万国博覧会 Photo by takato marui

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