45年続いた明治時代が終わり、人々の食生活が急激に西洋化していきます。大正デモクラシーによって庶民の間にも民主主義が叫ばれるようになり、職業婦人が登場。自由な気風によって飽食謳歌の現代に通じる美食・グルメブームが起き、次々と創刊された婦人向け雑誌が家事・実用情報とともに、数々の洋食や調理法を日本に紹介しました。外食が一般化する一方で多くの民間企業が誕生し、新たな階層として出現した「サラリーマン」たちのお弁当としてもおむすびは活用されました。


 太平洋高気圧の影響を受け、地質構造上は環太平洋プレートの中に位置する日本では、古来より台風を始めとした風水害や火山の噴火、地震などの災害に度々見舞われてきました。その都度、時の支配者や領民・庶民によっておむすびが罹災者援助のための炊き出しとして役立てられて来ました。
つくるのが簡単だということもあるが、やはりそこには被害者を力づけるという気持ちがこもっているのであろう。そして、みんなが一同となっておむすびを食べることにより、「同じ釜の飯を食った仲間」としても連帯感を持つという効果もあるのだろう。握り飯は実に不思議な力づけの食べ物である。(参考K)
現在も、炊き出しと言えば、おむすびです。



 首都圏が壊滅的な打撃を受け、14万人を越える死者・行方不明者を出した1923年(大正12年)の関東大震災の際にも軍隊による炊き出しが行われました。しかし、その多くが玄米のおむすびだったために、当時すでに白米に馴れきっていた都市部の人々にとってたいへん食べにくいという不満が出ていたようです。一度味わったおいしい白米の味は、「麦飯を喰うくらいなら死んだ方がまし」と威勢の良い江戸っ子でなくともこだわりたくなるものだったのでしょう。

 震災のときは、炊き出し組の一員で働いた。手の皮のひりひりする熱いごはんをひまなく次々と握るのだが、かしらのおかみさんが指揮官で教えてくれた。「にぎりめしってものは、いわば手づかみなんだから、まごまごしていれば汚いもんだよね。だから拍子とってさ、ちゃっきりちゃっきりちゃっきりちゃっと、三度半に結んじまうもんなんだ」と。張り板の上に整列した握り飯は、引き続く余震の不安と、大火事に煙る不気味な空とをおさえて、見とれるばかり壮んなけしきだった。(参考I)
と後に書いているのは、19歳の誕生日に向島の自宅で罹災し、後に随筆家・作家となった幸田文(1904−1990)です。女学校に通いながら、厳格な父(幸田露伴)と継母に家事一切を任された上、結核を病んだ弟の面倒を見ていた頃の文は一家の代表として炊き出しに参加したのでしょう。また、文壇デビュー前の井伏鱒二(1898−1993)は、震災7日後に中央線経由の無料の避難列車に乗って郷里の広島へ帰る途中、甲府駅や上諏訪駅(山梨県)などで地元の婦人会などから(そら豆を煎った)弾豆を、中津川駅(岐阜県)では味噌汁と握り飯、薄皮饅頭の施しを受けたと記録しています。(参考L) いずれも空腹の被災者たちへ無償で配られたもので、塩尻駅では駅前の履物店で草履を調達するも、店主は「被災者からは貰えない」と代金さえ受け取らなかったそうです。――情けは人の為ならず。人々が互いに助け合うことが当たり前だった、人心豊かな往時が偲ばれます。

▲関東大震災後、日暮里駅に殺到、避難列車に群がる多く避難民。(朝日新聞社 1923)



 災害時の炊き出しと言えば、戦後最大の災害となった1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災では、6千人を超える死者・行方不明者、負傷者は4万人以上、30万人の避難者を出しました。それらの被害は、現代の私たちの使い捨て文化や、大量消費の裏で膨大な食糧廃棄をする生活について改めて考えさせられるきっかけともなりました。その際の食糧の有り難さや多くのボランティアの善意を忘れぬようにと、兵庫県では災害が起こった1月17日を「おむすびの日」として制定し、「ごはんを食べよう国民運動推進協議会」を立ち上げています。


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