震災のときは、炊き出し組の一員で働いた。手の皮のひりひりする熱いごはんをひまなく次々と握るのだが、かしらのおかみさんが指揮官で教えてくれた。「にぎりめしってものは、いわば手づかみなんだから、まごまごしていれば汚いもんだよね。だから拍子とってさ、ちゃっきりちゃっきりちゃっきりちゃっと、三度半に結んじまうもんなんだ」と。張り板の上に整列した握り飯は、引き続く余震の不安と、大火事に煙る不気味な空とをおさえて、見とれるばかり壮んなけしきだった。(参考I)
と後に書いているのは、19歳の誕生日に向島の自宅で罹災し、後に随筆家・作家となった幸田文(1904−1990)です。女学校に通いながら、厳格な父(幸田露伴)と継母に家事一切を任された上、結核を病んだ弟の面倒を見ていた頃の文は一家の代表として炊き出しに参加したのでしょう。また、文壇デビュー前の井伏鱒二(1898−1993)は、震災7日後に中央線経由の無料の避難列車に乗って郷里の広島へ帰る途中、甲府駅や上諏訪駅(山梨県)などで地元の婦人会などから(そら豆を煎った)弾豆を、中津川駅(岐阜県)では味噌汁と握り飯、薄皮饅頭の施しを受けたと記録しています。(参考L)
いずれも空腹の被災者たちへ無償で配られたもので、塩尻駅では駅前の履物店で草履を調達するも、店主は「被災者からは貰えない」と代金さえ受け取らなかったそうです。――情けは人の為ならず。人々が互いに助け合うことが当たり前だった、人心豊かな往時が偲ばれます。
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▲関東大震災後、日暮里駅に殺到、避難列車に群がる多く避難民。(朝日新聞社
1923) |