花には各々花言葉というのがあるが、暑さ寒さを乗り越えて一生懸命に香りを立て、きれいに咲いているのに思いもかけぬ意地悪な言葉がつけられた可哀想な花もある。
花言葉ならぬ「言葉の花」(私の造語)は「方言」ではないかと私は思う。標準語という株に咲いた各地方の特長のある花ではないかと思われるのである。
例えば花と緑の農芸財団で都会に住む子供達や家族を招じ稲作りを行っているが、その収穫の時手刈りで刈った稲を小さく束ねる。それをこの辺では「マルク」と呼ぶ。束ねた稲を稲架(はざ)に掛けるのだが、その束ねるものを「ヨッツォ」と呼ぶ。昨年の藁を保存しておき「袴(はかま)」を取り除く。袴とは"しべ"のこと、これも稲に対する尊敬の呼び名だ。その藁を6,7本先端20センチほどを縄に綯い、その先端を指先で結ぶ。それを立てて眺めると丁度男女が抱き合っているように見える。
「ヨッツォ」とは「寄り添う」という形容詞なのだ。農作に励む夫婦の姿なのだ。
数年前、私の所に東北大学教育学部から芝山町の方言についてというアンケートの依頼があり、確か70項目ほどだったと思うが大変興味を惹かれるもので勉強になった。しかし一万人足らずの町でありながら多古町に近い地区と富里に近い地区、外来者の多かった芝山仁王尊に近い地区では微妙に違いがあるのに気付いた。
最近、NHKドラマ『あまちゃん』にみられるように方言がもてはやされて流行語にもなっている。それにつけても晩酌を始めようと思っていたところへ突然来訪、お湯で割るようにすすめても承知せず、私の愛用の四十五度の泡盛をすいすいと四合近く飲み、送らせるからと云ってもこれを承知せず帰って行った*土井脩司さん。今、憶いだすと体調がそうさせたのかなとも思われる。
この原稿を書きながら、無欲で純白の花の様な土井脩司さんを偲び、度々ペンを止めてしまった。
本記事は会報誌「花の心」72号(2014年1月発行)に掲載されたものです。